1971年にデビューし、50年以上役者として活躍している市毛良枝(73)。これだけのキャリアを誇るにもかかわらず、市毛自身は「いまだにこの仕事は向いてない」と感じ、「何度も辞めようと思った」と明かす。だが、40歳直前に始めた登山を楽しむ中で、役者業を続けていく意味を見出したという。市毛にインタビューし、役者業への思いと登山がもたらしてくれた変化について話を聞いた。

  • 市毛良枝

    市毛良枝 撮影:仲西マティアス

■「私は一生感動していたいんだ」 原点を思い出す

市毛は「この仕事を50年以上やらせてもらっていますが、いまだに向いてないなと思っていて、毎年のように辞めよう、辞めなきゃと思うんです」と告白。そう思うタイミングがありながらも、なんとか続けてこられたのだという。

「自己アピールも下手だし、目立つことも得意じゃないし、本当に向いてないと思うのですが、辞めようと思うそのタイミングが来るたびに辞められないパターンになるんです。例えば、同じようなことばかりやって飽きてきて、もういいかなと思った時に、違うお仕事をいただいて、ちょっとやってみたいなと思ってやってみるという、そんなことの繰り返しで」

そして、60歳の頃に本気で辞めようと考えたと打ち明ける。

「母の介護もあって、辞めたほうが楽かもしれないと思って、大真面目に辞めようと考えました。私たちの仕事は依頼があって初めて成立するという待つ仕事なので、辞めないまま続けていて仕事がなくなると、寂しい自分になってしまいそうな気がして。仕事が来ないという状況になったときに耐えられるのだろうかと。地に足をつけてずっと続けられるようなことを始めて、そこを自分の居場所にしたほうがいいかもしれないと思った時期がありました」

だが、「おかげさまで仕事が途絶えなくて、いろいろな仕事をさせていただく中でまた少し気分も変わっていって……」と辞めずに継続。そして、趣味の登山をする中で、役者業に対する思いを再確認できたのだという。

「今、山の本を書いているのですが、書いている時に、役者という仕事について、感動する喜びを知り、それを感じていただけることがしたいと思って始めたという原点を思い出したんです。仕事をしていくうちにどこかでルーティンワークになり、こなすみたいになっていたのかなと。でも原点に戻ると、自分が感動しなかったら、人も感動してくださらないということもわかって。山も感動したからこんなにハマったんだなと思いました」

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役者業も登山も「感動」という共通点があると気づいた時、役者業を続けていく意味を見出したという市毛。

「私は一生感動していたいんだなと。感動のない人生になってしまったらきっと生きていられないんだなと思った時に、この仕事をしていく意味を感じて。まさか登山と仕事がつながるとは、びっくりしています」

■山の捉え方が変化「単なる運動ではなく、感動を与えてくれるもの」

そして、役者業をしている自身は「文化的な仕事をしているので文化系の人間」で、一方、登山は「文化ではなく、肉体を使う荒ぶる男の世界」だと、全く違うものとして捉えていたが、「山も文化だ」と感じるようになったという。

「登山を始めた時は、(仕事とは)全然違うところに踏み入ったつもりで、両方の活動をすることでバランスが取れるのだと思っていましたが、実は山で起きていることすべてが文化だし、山にまつわる人々の生活も文化だと思い、両方とも文化だったのだと気づきました」

登山においては、山で聞こえてくる音など、五感を使ってさまざまな感動を味わっているという。

「楽器で奏でる音楽は聞こえないけど、鳥の声や風の音、落ち葉を踏む音など、それが私には音楽のように聞こえて。春が始まる瞬間もあって、『今日、春が始まったよね』という日があるんです。そういう瞬間に立ち会うと、まるでシンフォニーが聞こえるように思えて。そういうことを山で感じているんだなと思うと、単なる肉体を使った運動ではなく、五感をいろいろな形で刺激して感動を与えてくれるものなのだと、そう考えるようになりました」

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また、肉体を使うからこそ、そういった感動をより味わいやすいと語る。

「肉体を使うつらさがあるから感覚が研ぎ澄まされ、『えらいね~お花頑張ってるね~』というように、小さなことにも感動するように。感動は限りなくあり、喜びがたくさんあるんです」

当初は、登山は単なるリフレッシュだと考えていたが、市毛にとってそれ以上に大切なものに。

「日常とは違うところに行ってリフレッシュしているとしか思ってなかったんです。日々のストレスのようなものを、山に行って解消しているつもりでいましたが、それだけではなく、もっといろんなものをもらって帰ってきていたんだなと気づきました」

山で感覚が研ぎ澄まされ、演技にも生きることはあるのだろうか。

「もしかしたらあるかもしれません。役者同士も、それぞれの感覚でキャッチボールしながら作っていくので、より繊細になっているのかなと思いますが、自分ではわかりません」