ティナ・ターナー、家庭内暴力を乗り越え自立した女性をめざして 歌で世界に愛と勇気を与えた生涯

「ロックの女王」ティナ・ターナーが、長い闘病の末、83歳で逝去した。家庭内暴力という自身の辛い経験を乗り越え、自立した女性として世界を切り開いてきたティナ・ターナーの生涯を振り返る。

「痛みやトラウマを抱え、それを踏み台にして世界を変えようとしてきた女性に、どうお別れを言えばいいのだろう? 自分の物語を思い切って語り、犠牲も顧みずに人生をまっすぐ突き進み、強い意志で自分や他のアーティストのためにロック界に道を切り開いてきたティナ・ターナーは、怯えて暮らしていた人たちに、愛と思いやり、自由に満ちた明るい未来の姿を見せてくれた」と、1993年の映画『ティナ』で、ティナ・ターナー本人を演じた女優アンジェラ・バセットは、ティナ・ターナーを追悼した。

「ロックンロールの女王ティナ・ターナーは、スイス・チューリッヒ近郊のキュスナハトの自宅で、長い闘病生活の末、83歳で穏やかに息を引き取りました。音楽界のレジェンドであり、ロールモデルであった彼女を世界は失ってしまった」と、家族が24日に声明を発表。本記事では、米ローリングストーン誌の過去のインタビューとともに、彼女の83年の生涯を振り返る。

1939年11月26日生まれ、ティナ・ターナーことアンナ・メイ・ブロックは、テネシー州のナットブッシュで生まれ育った。ここはヘイウッド郡の人里離れた地域で、彼女の楽曲「ナットブッシュ・シティ・リミッツ」でも歌われている。本人いわく、一家は分益小作農でまずまずの暮らしをしていた「裕福な農家」だったという。とはいえ、両親が仕事で家を離れる時には、姉のルビー・アイリーンと孤独をやり過ごしていた。

「母と父は愛し合っていなかった。だからいつも喧嘩ばかりだった」と、ターナーは1986年にローリングストーン誌のインタビューで語っている。ティナが10歳の時、最初に母親が家を出てセントルイスに移り住み、その3年後には父親が家を出た。ターナー本人はテネシー州ブラウンズビルに引っ越して、祖母と暮らした。

高校卒業後は、正式雇用を目指して看護士見習いの職に就いた。姉とは頻繁にセントルイスやイーストセントルイスのナイトクラブに通い、そこでキングス・オブ・リズムというバンドのリーダー、アイク・ターナーのパフォーマンスを初めて見たという。18歳だったターナーは8歳上のギタリストと音楽にすっかり魅了された。ある夜、ドラマーが観客席にいたターナーにマイクを手渡した。アイクがバンドのボーカルをやらないかとティナを誘い、ボイスコントロールやパフォーマンスの手ほどきをした。彼女は通称「リトル・アン」として、カールソン・オリバーとともにアイク・ターナーの「Box Top」で歌うことになった。これが彼女にとって初めてのスタジオ収録だった。

1984年、米ローリングストーン誌の表紙を飾るティナ・ターナー

「Box Top」がリリースされた1958年、ターナーはキングス・オブ・リズムのサックス奏者レイモンド・ヒルとの間に、第1子となるレイモンド・クレイグを出産する。ほどなくターナーはアイクと同居し、アイクが別れた妻との間にもうけた2人の息子の世話をした。やがてアイクとは男女関係に発展したが、最初のうちはあまり心惹かれなかったと1984年のローリングストーン誌とのインタビューで語っている。「兄のように慕っていたの。付き合おうとは思っていなかった。でもなんとなく、だんだんそうなっていった」 アイクの要請で、シリーズ映画『ジャングルの女王シーナ』にヒントを得て、ターナーは芸名をティナに変えた。

1960年、アイクとティナ・ターナーはデビューシングル「ア・フール・イン・ラブ(A Fool in Love)」をリリース。たちまちヒットとなり、ビルボード・シングルチャート30圏内にランクインした。翌年にリリースした「イッツ・ゴナ・ワーク・アウト・ファイン(Its Gonna Work Out Fine)」もヒットし、グラミー賞最優秀ロックンロール・パフォーマンス部門で初ノミネートを果たした。初期60年代にはアイク&ティナ・ターナー・レヴューとして黒人ナイトクラブで精力的にツアーをこなし、クオリティの高い演出と幅広い層からの支持で一目置かれる存在になった。

「成功と恐怖はほぼ同時にやってきた」と、ティナはローリングストーン誌に語った。とくにアイクのほうが、「A Fool in Love」の後に彼女を失うのではないかと恐れていたそうだ。アイクは女遊びを辞めず、彼の楽曲が他の女性との関係を歌っていることにティナも気づいていた。ある時、彼女は巡業で彼の歌を歌うのを拒否した。初めて彼女が歯向かった時、アイクは靴べらで彼女を殴り始めた。それでも彼女は彼の元を離れなかった。「アイクに忠誠心を感じていた。彼を傷つけたくなかったの」と、1984年にローリングストーン誌に語っている。「もし私がいなくなったら、歌う人がいなくなる。それで罪悪感にかられたの。時々、彼に殴られた後に申し訳ないという気持ちになった。あざや切り傷だらけでへたり込み、彼にすまないと感じている。なんというか……洗脳? たぶん洗脳されていたのね」 2人は1962年にティフア

ナで結婚した。アイクにとっては6度目の結婚だった。

1966年、ターナー夫妻はいまや伝説となったTVロック番組『TNTショウ』に出演した。番組の音楽ディレクターを務めていたのがプロデューサーのフィル・スペクターだ。自身のレーベルに2人を契約させた後、スペクターは本人も傑作と認める「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」(River Deep - Mountain High)をプロデュースした。レコーディングの際、ティナは数えきれないほどのテイクを収録した。期待したほどの大ヒットにはならなかったが、この曲でアイクとティナの前に道が開けた。

1969年、2人はローリングストーンズの全米ツアーの前座を務め、その後クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「プラウド・メアリー」(Proud Mary)をカバー。この曲はティナのおかげでじわじわと人気を集め、やがてジャンルを超えてヒットし、グラミー賞最優秀R&Bグループ・ボーカルパフォーマンス賞を受賞した(クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルのジョン・フォガティも、「彼女のバージョンが大好きだった」と声明の中で語っている。「個性的で最高だった」)。1975年、ザ・フーの『トミー』をベースにしたケン・ラッセル監督のスペクタクルムービーでは、ティナもアシッドクイーン役で出演した。

ティナ・ターナーとアイク・ターナ、1975年ロンドンにて(Photo by Michael Putland/Getty Images) だがそんな中、ターナー夫妻の結婚生活にはほころびが見え始めていた。アイクは次第に暴力的になり、コカインにのめり込んでいった。これまで何度も彼と別れようと考えていたティナは、暴力的な夫から離れたいがために1968年には自殺を試みた。後に本人が「最後の激しい暴力」と語るできごとの後、ティナは2人が出演していたダラスのラマダ・インに文字通り逃げ込み、友人で女優のアン・マーガレットにロサンゼルス行きの飛行機代を工面してもらった。アイクが彼女の行方を捜しまわる間、彼女は映画『トミー』の共演者と一緒だった。夫婦は1976年に離婚した。

「どうやって稼げばいいかもわからなかった」と、後に本人は語っている。「アイクは私には無理だと思っていたけれど、家を見つけられた。そしたらアイクは子どもたちと最初の1か月分の家賃を送ってきた。金が尽きたら戻ってくるだろうと思っていたのね。最初の夜は床で寝た。家具もレンタルだった。子どもたちに持ってこさせたブルーチップギフト券があったので、それで食器類を手に入れた」

別れる決心をつけられたのは仏教と出会ったおかげだともターナーは言う。「欠かさず祈る……それが私の力になった」と、1986年にターナーはローリングストーン誌に語っている。「心理的に私は自分を律していた。だからドラッグもやらなかったし、酒も飲まなかった。自制を保ち続ける必要があったの。それでずっと精神世界に答えを求め続けたわ」

1986年、米ローリングストーン誌の表紙を飾るティナ・ターナー

トレードマークともいえる独特の声の持ち主で、元夫と数々の業績を成し遂げたにも関わらず、ソロアーティストとしてはなかなか芽が出なかった。ブレイク前にリリースされた1974年の『Tina Turns the Country On』をはじめ、ソロ作品は鳴かず飛ばずで、アイクやIRS関連のツアーをキャンセルしたことで生じた借金を返済するために8年も巡業生活を送った。

自分を避けているかのような業界で、自分の居場所をキープするために、彼女は安酒場で演奏したり『Hollywood Squares』のようなバラエティ番組やゲーム番組に出演した。最近公開されたドキュメンタリー『Tina』で語られる、驚きのエピソードがある。80年代に新たにレーベル契約を結ぼうとしたところ、会社のお偉いさんが彼女を人種差別的な呼称で呼んだため、お流れになりそうになったこともあった。

ターナーの復活劇が始まったのは1982年。イギリス出身のシンセバンド、ヘヴン17が、テンプテーションズの「ボール・オブ・コンフュージョン」のカバー曲でターナーを起用したのだ。この曲をきっかけに、ターナーはキャピトルと新たに契約。マネージャーのロジャー・デイヴィスが彼女とヘヴン17に、アル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」をカバーしては、と持ちかけると、全米シングルチャート30位圏内にランクイン。友人のデヴィッド・ボウイのサポートもあり、ターナーはキャピトル移籍第1弾となる『プライヴェート・ダンサー』のレコーディングに取りかかった。

シンセサイザーや現代的な演出を盛り込もうというデイヴィスと彼女の意向から、イギリス人ソングライターのテリー・ブリタンが手がけた「愛の魔力」などの楽曲をリリース。この曲のデモをターナーは気に入らなかったが、「もう少しラフに、シャープにとがらせてほしい」とアドバイスされた、と後に語っている。

アドバイスをもとに彼女が息を吹き込んだこの曲は3週連続チャート1位を獲得し、MTVの定番ソングになった。彼女クラスの60年代の大御所ではまれにみるほどの勢いで、ターナーのキャリアも盛り返していった。レトロサウンドに背を向け、10年以上ぶりに彼女の声を披露した『プライヴェート・ダンサー』で、ターナーは(MTVにおあつらえ向きのウィッグ、ピンヒール、網タイツとともに)新世代の若いオーディエンスの前に登場。「愛の魔力」はグラミー賞3部門を受賞した(最優秀年間レコード賞、女性ポップボーカル賞など)。これも彼女の意思の強さを表しているエピソードだが、TV中継された授賞式でターナーはインフルエンザに罹っていたにも関わらず、この曲をライブ演奏した。

『プライヴェート・ダンサー』の成功は、ポップカルチャーへの返り咲きの序章に過ぎなかった。翌年にはメル・ギブソン主演の『マッドマックス/サンダードーム』にアウンティ・エンティティ役で出演――映画の挿入歌「孤独のヒーロー」も、これまたヒットとなった。スター勢ぞろいの「ウィー・アー・ザ・ワールド」の収録にも参加したり、ライブ・エイドではミック・ジャガーと共演してステージを沸かせた(こうしたことのおかげで、「たっぷり稼いで、借金を全額返済できた」と後に本人も語っている)。1986年には初の回顧録『ティナ』を出版。ローリングストーン誌のカート・ロダー記者との共著はベストセラー入りとなった。マッドマックスの別の挿入歌「One of the Living」は、1985年のグラミー賞で最優秀女性ロックパフォーマンス賞を受賞した。

1985年のグラミー賞でパフォーマンスをするティナ・ターナー (Photo by Bettmann Gety Images)

ターナーは1981年のピープル誌とのインタビューで、初めて公の場でアイクとの波乱万丈な結婚生活を語ったが、伝記『ティナ』ではさらに詳しく描かれている。結果として、ベストセラー入りしただけでなく――他のロックスターがペンをとる際のひな型になったのは間違いない――家庭内暴力の犠牲者に希望の光を与える1冊にもなった。ターナー本人も、社会全体で家庭内暴力撲滅に取り組むよう働きかけを行った。

「生活費をくれる男の言いなりにはなりたくない」と、1986年のローリングストーン誌とのインタビューでも語っている。「もうビクビクするのはたくさん。昔は、人生でほしいものを手に入れるためには結婚するしかないと思っていた。でもそうしたものを自分のために、自分で手に入れられるんだと気づいたら、すごく気持ちがよくなった。自分のことは自分で面倒みられる、男に頼らなくてもいい、愛を分かち合うだけでいいんだと感じたわ」

1989年にリリースしたアルバム『Foreign Affair』は、またもや数百万枚のセールスを記録。さらにボニー・タイラーの「ザ・ベスト」のカバーも大ヒットした。ターナーにとってその後の10年は、キャリアの再確認だった。1993年には『ティナ』が映画化され、アンジェラ・バセットが本人役を、ローレン・フィッシュバーンがアイク役を演じた。映画のサウンドトラックのひとつ「I Dont Wanna Fight」が、ターナー最期のトップ10入りシングルとなった。

ターナーを演じてアカデミー賞最優秀女優賞にノミネートされたバセットは、シンガーの訃報のあと声明を発表。「痛みやトラウマを抱え、それを踏み台にして世界を変えようとしてきた女性に、どうお別れを言えばいいのだろう? 自分の物語を思い切って語り、犠牲も顧みずに人生をまっすぐ突き進み、強い意志で自分や他のアーティストのためにロック界に道を切り開いてきたティナ・ターナーは、怯えて暮らしていた人たちに、愛と思いやり、自由に満ちた明るい未来の姿を見せてくれた」

ターナーはその後もシングル「Better Be Good to Me」やライブアルバム『Tina Live in Europe』、2007年にハービー・ハンコックがリリースしたジョニ・ミチェルへのトリビュトアルバム『River: The Joni Letters』に参加し、グラミー賞を受賞した。ちなみに後者で、ターナーはミチェルの「Edith and the Kingpin」を歌っている。

1999年には最期のアルバムとなる『Twenty Four Seven』をリリース。プロデューサーには、シェールの「ビリーヴ」も手掛けたチームが参加している。アルバムは前作ほど商業的にはヒットしなかったが、数々の賞を受賞し、批評家からも絶賛された。2005年にはトニー・ベネット、ロバート・レッドフォードなどとともに、当時のジョージ・W・ブッシュ大統領からケネディセンター栄誉賞を授与され、ビヨンセが「プラウド・メアリー」を披露して祝福した。

2008年から2009年にかけて、ターナーは音楽生活50周年記念ツアーを敢行。彼女の半生を描いたミュージカル『ティナ』は2018年にロンドンで初上演された後、翌年ブロードウェイでも上演された。主役を演じたアドリエンヌ・ウォーレンは2020年にトニー賞ミュージカル部門最優秀女優賞に輝いている。

ターナー本人ものちに語っているように、彼女の半生やアイクとの日々を語り継いだ結果――映画であれ、ミュージカルであれ、ドキュメンタリーであれ――代償もついて回った。彼女の苦労は他の人々に力を与える一方で、本人は当時の記憶を絶えず再現しなければならず、アイクが2007年に他界した後もアイクについて質問された。「彼は私をスタートラインに乗せてくれた。最初のうちは優しかったのよ」と、ドキュメンタリーの中で本人は語っている。「だから良かったなと思うこともある。多分、彼と出会えたのはいいことだったわ。出会えたことはね。多分だけど」

1986年、ターナーは音楽業界の重役でドイツ人のアーウィン・バックと出会い、ほどなく交際を始めた。最初はドイツに移り住み、のちにスイスに移住。2013年に結婚式を上げたものの、3週間後に脳卒中を患い、近年は小腸ガンも発症していた。腎不全が疑われたことから、2017年に夫のバック氏から腎臓を提供してもらう。「アーウィンが臓器を提供してくれたのは、ある種の取引だと思う人がいるなんてね」と、2018年の回顧録『My Love Story』でティナはこう書いている。「私たちが過ごしてきた時間を考えれば、アーウィンがお金や名声目当てで私と結婚したと考える人がいまだにいるなんて、信じられない」

「力強さととんでもないエネルギー、底なしの才能を備えた彼女は唯一無二の存在で、まさに自然の驚異です」と、長年マネージャーを務めたロジャー・デイヴィスはローリングストーン誌に宛てた声明の中でこう語った。「1980年に初めて彼女と会ったとき、周りからの支持がほとんどない中で、彼女は自分に自信を持っていました。マネージャーとして、そして親しい友人として30年以上を共にすることができて光栄至極です。心からご冥福をお祈りします」

1986年のローリングストーン誌とのインタビューで、彼女はオーディエンスとのつながりを振り返ってこう語っている。「私の曲は、私を見守っている人たちの生活を少しばかり反映している。みんなが共感できることを歌わないとね。中には不埒な人間もいる。この世の中は完璧じゃない。そういうこと全部が私の演技に表れている……だから私は歌よりも演技が好きなのね。演技の場合、役を演じても許されるでしょ。毎晩同じ役をやっていると、それが素だと思われてしまう。演技だとは見てもらえない。それが音楽人生で負った傷ね。もちろんそれも承知の上よ」