JR西日本は12月6日、オヤ31形客車(建築限界測定車)をえちごトキめき鉄道に譲渡すると発表した。オヤ31形の「オ」は積載重量32.5トン以上37.5トン未満を示す。「ヤ」は職用車を示す。職用車は業務用に用いる車両で、一般の乗客を乗せない。営業用ではなく、鉄道事業に必要な車両である。2桁の数字のうち、「3」は鋼製客車であることを示す。「1」は台車の車軸数を示し、「0」~「7」は車両の両端に2軸の台車、「8」「9」は車両の両端に3軸の台車を持つ。

  • JR西日本からえちごトキめき鉄道へ譲渡されるオヤ31形客車(写真提供 : 鳥塚亮氏)

    オヤ31形の「矢羽根」を広げた状態(写真提供 : 鳥塚亮氏)

  • オヤ31形の「矢羽根」を広げた状態(写真提供 : 鳥塚亮氏)

JR西日本からえちごトキめき鉄道へ譲渡されるオヤ31形客車(写真提供 : 鳥塚亮氏) オヤ31形の「矢羽根」を広げた状態(写真提供 : 鳥塚亮氏)

オヤ31形の「矢羽根」を畳んだ状態(写真提供 : 鳥塚亮氏) 建築限界測定車は、線路上の建築物が車両と適切な距離を保っているか調べるための試験車両。架線柱、トンネルの壁、信号機、標識が列車と接触してはいけないし、乗務員が確認のために窓から手や頭を出した際も怪我をしないようにしなければならない。これが「適切な距離」となる。新路線の建設や電化工事の際に走行するだけでなく、定期的に確認を行っているという。列車の安全運行に欠かせない車両といえる。

建築限界の測定方法として、現在はレーザー光線が使われている。オヤ31形はその前の古い方式で測定していた。車両の側面から屋根にかけて約100本の棒(矢羽根)を配置し、この棒がなにかに接触すると、針金を伝わって車内の測定装置が反応する。この矢羽根が並ぶ姿を「花魁(おいらん)の頭にかんざしを並べた様子」に見立て、「オイラン車」と呼んだ。

花魁は江戸時代から明治時代にかけて吉原遊郭で働く遊女のうち、最も位の高い女性だという。近年、最も有名な花魁といえば、『鬼滅の刃』の遊廓編で登場した「堕姫」(花魁としての名前は「蕨姫」)だろう。彼女の結い髪とかんざしを思い浮かべてほしい。いずれにしても、こんなあだ名を付けるなんて、かつての国鉄が男の職場だった象徴とも言えるかもしれない。

波瀾万丈の車歴を持つオヤ31形

オヤ31形の車両略歴について、JR西日本の報道発表資料を見ると、1937(昭和12)年に「三等客車スハフ32として新製」、1957(昭和32)年に「建築限界測定車オヤ31に改造」、2022年(令和4)年現在、「網干総合車両所 宮原支所 配置」となっている。この略歴をもう少し詳しく追ってみた。参考文献は雑誌「鉄道ピクトリアル 2006年8月号」。「特集 スハ32系(II)」に車歴表があった。

  • オヤ31形の車内。3回も改造を受けた(写真提供 : 鳥塚亮氏)

当該車両は1937(昭和12)年に「スハフ34525」として新製された。第二次世界大戦の開戦2年前のことだ。「ス」は積載重量37.5トン以上42.5トン未満を示す。「オ」より重いクラスだった。「ハ」は3等車、「フ」は車掌室がある車両を示す。1941(昭和16)年11月4日に形式称号が改正され、鋼製車体客車の記号と番号が整理された。「スハフ34525」は「スハフ32 224」となった。この1カ月後、真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入する。

1945(昭和20)年8月、日本が降伏し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指揮下に入った。同年9月、「スハフ32 224」はGHQに徴用され、連合軍専用客車として運行された。その3年後、1948(昭和23)年11月に「オミ35 11」となる。「ミ」はミリタリーを意味し、用途は酒保車。「酒保」は酒場ではなく、売店を意味する。

1952(昭和27)年、「オミ35 11」は「オシ33 104」に改造された。「シ」は食堂車を示す。当時は1950年から始まった朝鮮特需による好景気により、特急列車が復活した時期でもある。食堂車時代は5年間続き、1957(昭和32)年に「オヤ31 31」へ改造され、現在に至る。建築限界測定車として、2004(平成16)年まで実際に測定業務を担っていた。

  • 測定装置がある机(写真提供 : 鳥塚亮氏)

  • 車内に設けられたロングシート(写真提供 : 鳥塚亮氏)

製造から85年、建築限界測定車となってから65年。徴用されたり食堂車になったりと、波瀾万丈の車歴である。どこかにそれぞれの時代の名残があるだろうか。展示されたら確認しに行きたい。

トキ鉄の鳥塚社長「障害物検知イベントをやりたい」

JR西日本は京都鉄道博物館や津山まなびの鉄道館を保有している。それにもかかわらず、なぜオヤ31形をえちごトキめき鉄道に譲渡するのか。もしかして、もうどちらの施設もスペースがいっぱいになってしまったか。そのあたりの経緯について、えちごトキめき鉄道の代表取締役社長を務める鳥塚亮氏に聞いた。

「西日本の車両課さんとはいすみ鉄道時代にキハ2両の譲渡を受けてからのお付き合いがあります。直江津のD51 827導入の時も、新山口のD51 200を実機見学させていただき、413系電車・455系電車の譲受もあり、いろいろお世話になっております。今回はそのご縁もありまして、お話をいただきました」(鳥塚氏)

「直江津D51レールパーク」のオープン前後で、鳥塚氏がSNSやブログで「いいクルマがあったらほしいなあ」とつぶやいていたので、トキ鉄のリクエストだと思っていたのだが……。

「それも効果があったかもしれませんが、JR西日本からの打診がありました。今年の初夏の頃です。宮原に旧型客車が2両あって、マイテ49(1等展望車)は鉄道博物館に入れるけれども、オヤ31のほうはスペース的に難しいというような話だったと記憶しています」(鳥塚氏)

なんと、京都鉄道博物館のスペースがいっぱいという予測はほぼ当たりだった。ちなみに、マイテ49形は京都鉄道博物館に送られ、「特別なSLスチーム号」として、蒸気機関車が牽引する遊覧列車に使われた後、JR西日本の車籍を抹消。京都鉄道博物館の収蔵車両となった。マイテ49形は1961(昭和36)年に廃車され、いったん大阪の交通科学博物館に展示されたが、1987(昭和62)年に動態復元された。2006年公開の映画『旅の贈りもの 0:00発』にも出演している。

西日本の鉄道保存施設はJR西日本が運営する施設だけではない。倉吉線鉄道記念館、福知山鉄道館ポッポランド、鍛冶屋線市原駅資料館、有田川町鉄道公園などもある。JR西日本としては、京都と津山に集中させるだけでなく、同社管内の各地に譲渡することで、地域とともに鉄道文化を継承していきたいと考えているようだ。報道発表資料にも、「他鉄道事業者とも連携して国内の鉄道全体で鉄道文化の後世への継承をするべく」とある。

「オヤ31形は歴史的な価値があるので、直江津レールパークをやっているようなトキめき鉄道であれば、大切にしていただけるのではないか、という車両課の方のお考えがあったと聞いています。譲渡価格は公開できませんが、残存簿価ですので、たいした金額ではありません。皆さんがATMでおろして買える金額です」(鳥塚氏)

えちごトキめき鉄道は旧北陸本線(現・日本海ひすいライン)と旧信越本線(現・妙高はねうまライン)を運行する第三セクター鉄道。赤字と報じられているだけに、大きな買い物はできない。余談だが、ATMで一度におろせる金額といえば、銀行にもよるが50万~100万円。利用者の上限設定で加算できるとはいえ、常識的には100万円以下だろう。それで「直江津D51レールパーク」に名車を置けて集客できる。すでに展示されている蒸気機関車D51形にも似合う。じつに良い条件だと思う。

さて、気になるところは展示方法だ。「直江津D51レールパーク」でオヤ31形はどのような展示を行う予定だろうか。

「基本的にはそのままで展示、ときどき走行させる予定でいます。イベントでは走行するときに広げて障害物を検知するような実演をやりたいと思っています。車内は当時のままですので、基本的には何も改造をする予定はありませんが、通常は外観からの公開定期的なイベントとして内覧を考えています」(鳥塚氏)

鳥塚氏のブログで公開された写真を見ると、車内にロングシートがある。D51形と連結して走行する機会があれば、あのロングシートに座ってみたい。建築限界検知イベントが実現すれば、日本でここだけ。世界でも類がない。日本だけでなく、世界中の鉄道ファンが訪れるかもしれない。

NHKの報道によると、オヤ31形は現在、金沢総合車両所で引渡しの準備が行われているという。えちごトキめき鉄道への引渡しは2023年1月の予定。「直江津D51レールパーク」は12月5日から冬期休業しており、営業再開は3月中旬とのこと。そのときにオヤ31形もお披露目となるようだ。内覧イベントの実施など続報を待ちたい。

【お詫びと訂正】

2022年12月21日掲載の記事「JR西日本オヤ31形『オイラン車』トキ鉄へ、鳥塚社長に経緯を聞いた」に誤りがありました。 深くお詫び申し上げますと共に、以下のように記載内容を訂正させて頂きます(2022年12月22日:訂正)。

誤:「スハフ34525」は「スハ32 224」となった。 正:「スハフ34525」は「スハフ32 224」となった。