加藤幸夫に十字絞めを決めて勝利したエリオ・グレイシーは、ついに木村政彦と闘うことになった。日時は1951年10月23日、決戦の舞台はリオ・デ・ジャネイロのマラカナン・スタジアム。試合形式は10分×3ラウンドの柔術ルールだった。

  • グレイシー柔術創始、エリオ・グレイシー。他界して十余年が経ついまも多くの格闘家、格闘技ファンから愛され続ける。(写真:SLAM JAM)

ブラジル国民の熱い視線が注がれる中での決闘の結末はいかに? この一戦でエリオは腕を折られたのか? (第2話「エリオ・グレイシーvs.加藤幸夫、2度にわたる死闘の行方は!? 『マラカナン1951』への道─」から続く)。

■「悲劇の舞台」での決闘

サッカー場として知られるマラカナン・スタジアムは、10万人以上の観客を収容する巨大な楕円形競技場だ。
第2次世界大戦が終わって間もない1950年、サッカー・ワールドカップの第4回大会はブラジルで開催されている。戦争の惨禍から復興していないヨーロッパでの開催は難しく、ダメージを負うことのなかった南米で行われることになったのだ。そのために世界最大規模のサッカー場、マラカナン・スタジアムは誕生した。

同大会の決勝戦は南米同士の闘い、ブラジルvs.ウルグアイだった。
後半早々にブラジルが先制。スタジアムの熱狂は勿論のこと、リオ・デ・ジャネイロの街自体がお祭り騒ぎとなり夜空に花火が打ち上げられる。
しかし、その後にブラジルは同点に追いつかれ、試合時間残り10分に逆転を許して敗れた。
終了のホイッスルが吹かれた瞬間、街は静まり返った。その様子を『グローブ』紙はこう伝えた。
「リオ・デ・ジャネイロは死の街になった」
マラカナン・スタジアムは、その歴史をスタートさせて早々にリオ市民にとって悲劇の舞台となってしまったのだ。

そのマラカナン・スタジアムで翌51年10月23日、エリオ・グレイシーvs.木村政彦は行われた。
「巨大な会場に多くの人が集まっていた。おそらく4万人はいたと思う」
エリオは、そう回想した。
片側のサッカーゴールは取り除かれ、フィールドに観客が押し寄せている。まだテレビが普及しておらず中継はされていない。それでも国民の関心は高かった。

試合が始まり両者は組み合った。木村は相手の様子をうかがうだけで自ら動こうとはしない。対照的にエリオは幾度か投げを試みた。しかし自然体に構える木村は、まったく動じず。一度だけ縺れ合ってグラウンドの展開に移行したが両者ともに関節技、絞め技を決めることはできなかった。1ラウンドの10分間は静かなる攻防に終わった。

2ラウンドに入ると木村が動きを見せ始めた。
投げ技を見舞った木村が主導する形で攻防は寝技に持ち込まれる。そのまま木村はヘッドロックを仕掛け袈裟固めでエリオを抑え込んだ。そして両腕に力を込め一気に絞り上げた。 決めにかかる木村、耐えるエリオ。

この状態が数十秒間続いた後、木村は両腕の力を一度僅かにゆるめてエリオに声をかけた。
「アー・ユー・OK?」
なぜ木村が力をゆるめてそんなことを言ったのか、その時エリオは理解できなかった。
もちろんOKだ、とエリオは小さく頷く。すると木村は再び絞め始めた。実はこの時、エリオの耳から血が流れ出していた。強く絞めつけられたプレッシャーによって血が吹き出したのだろう。それに気づいた木村は一瞬力をゆるめ、件の問いかけをしたのである。

「あの時、私はとてつもなく苦しかった。そして直後に意識を失った」
エリオは、後にあのシーンをそう振り返っている。
だが、エリオが失神したことに木村は気づいていない。さらに締め上げた後に木村はポジッションを移行した。
この時に、エリオは意識を取り戻すが木村優位の状態が続く。そしてサイドポジションから木村が完璧な腕固めを決めた。伝説の「キムラロック」である。
エリオは激痛に見舞われる。それでもタップを拒否し続けた。木村はさらに深く腕を決め込む。この時、セコンドについていたカーロス・グレイシーが試合場に飛び込んだ。

  • 1951年10月23日、マラカナン・スタジアムでの決闘。木村がエリオを攻め続けた。(写真:『グレイシー柔術・インアクション』より)

■木村政彦がエリオに残した言葉

決着がついた。
タップはしなかったが完敗だった。エリオも潔く認めた。
この時のことを木村は後年、次のように綴っている。
「エリオは私の腕固めがガッチリと決まってもギブアップしなかった。仕方なく私は彼の腕を折った。それでもなお彼はギブアップしなかったのだ。凄まじい闘魂。これこそ日本柔道が見習うべきところだ」
木村がエリオの腕を骨折させたことが、定説化している。
だが、エリオは私にこう反論した。
「私は腕を折られていない。これは、もう一度ハッキリと言っておく。私の腕は折られていなかった。当時のことを思い出すとついつい熱くなってしまうが、これが真実だ」

試合の2日後、木村はエリオを訪ねる。そして、こう言った。
「エリオ、あなたを日本に招待したい」
どうしてかと、エリオは尋ねた。木村が答える。
「あなたは私と闘うにはカラダが小さ過ぎた。それでも、技と闘魂は素晴らしい。日本の柔道界が忘れてしまったことが、エリオ、あなたの中で生きている。それを日本の柔道界に思い起こさせて欲しい」
だがエリオが、日本へ行くことはなかった。
リオ・デ・ジャネイロの道場で自らの稽古と後進の育成をする道を選んだ。それでも木村からの言葉を誇りに思った。

エリオは私に、こう話したことがある。話題が「尊敬する人物」に及んだ時だ。
「私は人生のすべてを柔術に捧げてきた。本もほとんど読んだことがないので文学なんてわからない。ブラジルの政治家を尊敬できるはずもないでしょう。歴史上の人物として、ナポレオン、リンカーン、アインシュタインらを挙げる人もいるが実像なんてわかるはずもない。
私が尊敬する人物、それはこれまでに私と闘ってくれた男たちだ。中でも私に勝ったキムラ、彼のことは特別に尊敬している」

1999年11月、エリオは息子のホイスとともに初めて講道館に足を踏み入れた。資料室で木村政彦の写真をジッと見つめるエリオの目には、薄らと涙が浮かんでいた。
2009年1月29日他界。享年95。
エリオ・グレイシーの存在なくして総合格闘技界の隆盛はなかったであろう。

文/近藤隆夫