東急電鉄は4月5日、田園都市線の車両8500系について、定期運行を2023年1月に終了すると発表した。銀色に輝く車体、前面に東急コーポレートカラーの赤帯を掲げ、約半世紀にわたって走り続けた。8500系は多摩田園都市の発展の象徴であり、ニュータウン生活の憧れの象徴でもあった。1980年代の大ヒットドラマ『金曜日の妻たちへ』『金曜日の妻たちへ III 恋におちて』『私鉄沿線97分署』にもしばしば登場し、全国ネットのテレビ画面を走った。

  • 東急電鉄8500系。田園都市線から東京メトロ半蔵門線・東武スカイツリーラインにも乗り入れた(2017年撮影)

東急電鉄は8500系の歴史と功績を記念し、4月6日から引退までの約10カ月間、「ありがとうハチゴー」プロジェクトを実施する。4月17日に「ありがとうハチゴー特設サイト」も公開された。トップページでは、9枚の走行写真をスライドショー形式で表示している。公開時のコンテンツとして「8500系とは」「イベント告知」「グッズ紹介」があり、今後、「歴史」「動画で見る8500系」「8500系を語る」を追加予定となっている。

■一部従業員が使った「ハチゴー」公式愛称に

ところで、「ありがとうハチゴー」というプロジェクト名に鉄道ファンはざわついた。「8500系ってハチゴーって呼ばれていたっけ?」と。筆者もその1人だ。

8500系が登場した頃、筆者は8歳。ちょうど田園都市線(現・大井町線)の旗の台に転居したばかりだった。高校時代は通学で8500系に乗り、社会人になってからは田園都市線沿線に住み、8500系で通勤した。その後、20年ほど離れていたが、数年前から田園都市線沿線の実家に戻った。8500系への思い入れも深いはずだが、「ハチゴー」という愛称は初耳だった。

鉄道趣味誌や趣味サイトでも「ハチゴー」は見かけなかった。ちょっと違和感がある。いや待てよ。もしかしたら、東急電鉄社内では「ハチゴー」と呼んでいるかもしれない。東急電鉄広報に聞いてみたところ、「社内用語というわけではなく、一部の従業員の間では使われているようです」とのことだった。

なるほど。そういえば従姉妹の夫が東急電鉄の運転士だった。従姉妹に確認してもらったところ、「ハチゴーって呼んでますよ」と返信があった。SNS上でも、社員と思われるアカウントから、「あれ、鉄道ファンはハチゴーって言わないの?」というコメントが見られた。

それにしても、引退間際に「ハチゴー」が公式愛称に認定されるなんて……。鉄道ファンに使われなかった理由として、すでに蒸気機関車の愛称「ハチロク」(8620形)、「クンロク」(9600形)などがあったからかもしれない。実際、国鉄に8500形という蒸気機関車があった。1909(明治42)年に旧山陽鉄道27形が国鉄8500形に改められたし、1923(大正12)年には旧九州鉄道154形が8500形に改められている。ただし、どちらも「ハチゴー」とは呼ばれていなかったようだ。

それならもっと早くから、8500系を「ハチゴー」と呼んであげたかった。田園都市線の現在の起点、渋谷駅には忠犬ハチ公もいることだし、8500系の東急電鉄の貢献度を考えると、「忠電ハチゴー」という愛称もあっていい。これから9カ月間、「ハチゴー」を愛でよう。そして後世に「ハチゴー」を語り継ごう。

■派生形式から一大勢力になった8500系

「ハチゴー」こと8500系は、新形式としてデビューしたわけではなく、1969(昭和44)年に誕生した8000系の派生車種だった。8000系は東急電鉄初の20m級大型車。開発の背景として、1950年代後半から始まった高度経済成長と人口の東京集中がある。沿線の人口が増えたため、輸送容量を大きくする必要があった。さらに、東京へ通勤する人々の住宅需要も旺盛となっていた。

ちょうどこの頃、東急電鉄は多摩田園都市構想を掲げた。当初は多摩川西南から鶴見川付近に至る壮大な構想だったが、1956年に首都圏整備法が制定されると、川崎市と横浜市の北部一帯で鉄道を中心に開発する計画となった。この鉄道は大井町線を延伸する形で建設が進められ、1963年に大井町~溝ノ口(現・溝の口)間を田園都市線に改称。田園都市線は1966年に長津田駅まで延伸開業する。車両は東横線で主力となっていた7000系を新たに製造し、4両編成で充当した。ただし、鷺沼駅で2両を切り離し、鷺沼~長津田間は2両編成に。まだまだのんびりとした時代だった。

やがて多摩田園都市の開発が本格化し、輸送力不足に陥る。広大な地域からの通勤者を田園都市線だけでは受け止められない。さらに、渋谷~二子玉川園(現・二子玉川)間を結んだ路面電車「玉電」こと玉川線も、交通渋滞の原因になってしまった。そこで運輸省(現・国土交通省)の都市交通審議会は、1968年の答申第10号で、玉川線の地下化ともいうべき東京11号線を示した。これが後に東急新玉川線(現・田園都市線渋谷~二子玉川間)と営団地下鉄(現・東京メトロ)半蔵門線として開業する。8000系はこの地下路線の運行も見据えて製造された。

その後、東急電鉄と営団地下鉄によって、車内に速度信号を表示するCS-ATCの採用、勾配区間に対応した電動車比率など、半蔵門線運行車両の規格が定められた。この規格に則って、1975年から新たに製造された車両が8500系となった。つまり、東急電鉄の大型車導入のために8000系が製造され、その中でも地下鉄半蔵門線に対応する派生形式として、8500系が製造されたというわけだ。いわば「8000系8500番台」であった。

8500系の先頭車ヘッドライト付近に付けられた赤帯は本来、半蔵門線内で東急電鉄の車両と認識しやすくするために設置された、いわば地下鉄対応のシンボルだった。また、8500系は8000系と比べて、運転台窓が高い位置に設置され、行先表示幕の左右に種別表示幕・運行番号表示幕が取り付けられるなど、顔つきが変わった。これらの差異もあり、沿線の人々からも鉄道の現場からも新型車両と認知されていった。これが8500系の成り立ちだ。

8500系はその後の長編成化にともない製造数を増やした。8000系グループは、8500系、8090系、8590系も含めて計677両を製造。うち400両が8500系で、派生形式の中では最も多い。

  • 東急電鉄の一大勢力となった8500系。前面の赤帯がシンボルに(2018年撮影)

こうして、8500系は「東急の顔」になっていく。前面の赤帯も、半蔵門線との識別という意味は薄れ、東急電鉄のシンボルとして、各路線のステンレスカーに施工された。

■多摩田園都市の成長を見守ってきた8500系

多摩田園都市の発展に合わせて田園都市線も延伸し、8500系も長編成化された。

田園都市線は1966(昭和41)年に溝の口~長津田間が開業した後、1968年につくし野駅まで延伸。1972年にすずかけ台駅まで延伸された。1975年、その延伸用増備車両として、4両編成の8500系が10本投入された。田園都市線はその翌年(1976年)につきみ野駅まで延伸し、同時に大井町~つきみ野間の全線複線化と5両編成対応を達成。8500系も5両編成となった。

当時の田園都市線では、5000系、7000系、8500系などの車両が混在していた。筆者は旗の台駅から電車に乗るとき、とくに暑い日は8500系が来るとうれしかった。なぜなら、8500系は確実に冷房を搭載していたから。いまでは想像しがたいが、当時、冷房付きの電車は珍しかった。

1977年の新玉川線開業に向け、6両編成の8500系が2本製造されたが、新玉川線開業まで東横線で運用され、さらなる増備も進んだ。1979年に田園都市線の運行系統が刷新されると、すべての列車が新玉川線へ直通するようになり、大井町~二子玉川園(現・二子玉川)間は大井町線として分離された。田園都市線の8500系は6両編成または8両編成となり、1983年には10両編成となって、急行運転が開始された。

この年、TBS系ドラマ『金曜日の妻たちへ』が放送開始。田園都市線のたまプラーザ駅、つくし野駅付近が舞台となった。ドラマが人気になったことで、郊外の一戸建て、ニュータウン生活が注目された。東急田園都市線のブランド力が浸透したといえる。もっとも、東急電鉄はドラマのロケには協力しなかったようだ。

1984年につきみ野~中央林間間が開業し、田園都市線が全通。この年、ドラマ『金曜日の妻たちへ II 男たちよ、元気かい?』が放送された。舞台は中央林間駅付近という設定だったが、東急沿線と言うより小田急沿線ととらえられ、登場人物は会社帰りにロマンスカーを利用していた。むしろ田園都市線の知名度を上げたドラマは『私鉄沿線97分署』だった。

1985年、ドラマ『金曜日の妻たちへ III 恋におちて』が放送開始。舞台は田園都市線沿線に戻り、つくし野駅付近となった。主題歌「恋におちて -Fall in love-」も大ヒットし、8500系の走る田園都市線と多摩田園都市のブランドが確立した。

  • 現在、東急電鉄の8500系は2編成が残るのみ。うち1編成(8637F)は従来と異なる青帯が特徴(2014年撮影)

8500系はその後、東横線や大井町線でも活躍したが、後進の5000系や2020系に譲り、現在は田園都市線に2編成が残るのみとなった。先に引退した車両は長野電鉄、伊豆急行、秩父鉄道、インドネシアへ譲渡された。東急電鉄の関連会社、東急テクノシステムも2両を譲受し、静態保存している。今後は研修や技術教育に使われるそうだ。

多摩田園都市の成長を見届け、8500系は去って行く。残り10カ月弱、無事に走りきってほしい。