東京パラリンピック・競技2日目(8月26日)の夕刻、今大会「第1号日本人金メダリスト」が誕生した。男子100メートル自由形(運動機能障害S4)で34歳の鈴木孝幸が優勝。2008年北京大会以来2つ目の「金」を手にした。
日本勢の金メダル獲得は、2016年ロンドン大会以来9年ぶり、夏季通算115個目。この快挙の積み重ねは、パラリンピック「第1号日本人金メダリスト」から始まっている。61年前、「1964東京大会」での彼らの功績を振り返る─。
■温存作戦が功を奏す
今回がパラリンピック5回目の出場となるベテランらしい、見事な作戦勝ちだった。
この日の午前中に行われた予選を、鈴木は2組2位(タイム1分27秒48)で通過している。1位はイタリアのルイジ・ベジャトで1分22秒93。
4秒30を超えるタイム差があった。
(ベジャトには勢いがある。勝つのは難しいか)
そう思った関係者は少なくなかったことだろう。
だが、鈴木は虎視眈々と「金」を狙っていた。
前日に男子50メートル平泳ぎで銅メダルを得る力泳をした彼は、疲労を感じていた。そのため、敢えて予選は体力を温存する泳ぎに徹し、決勝で力を出し切ると決めていた。対して、ベジャトは予選から全開で泳ぐ。
1分22秒93。このベジャトのタイムを知った時、「いける!」と鈴木は感じたのではないか。
決勝戦、予想通りベジャトは序盤から飛ばす。そして、50メートルをトップでターン。鈴木も必死で喰らいついた。その後、ベジャトは徐々に失速。だが、鈴木はスピードを落とすことなく残り約10メートルの時点でライバルを抜き去りフィニッシュ。直後に電光掲示板を見上げ勝利を確認するとガッツポーズを見せた。
優勝タイムは1分21秒58。予選タイムを5秒50も上回るパラリンピックレコードだ。ベジャトは1分23秒21と予選タイムを下回った。
鈴木の温存作戦が功を奏した。
■61年前、ふたりの快挙
鈴木が今大会の第1号金メダリストとなった。
では、パラリンピック史上、最初の金メダリストは誰だったのか?
後に『第1回パラリンピック』と定められる1960年ローマでの「第9回国際ストーク・マンデビル競技大会」に日本は参加していない。初出場は1964年の東京大会。ここで「日本人第1号金メダリスト」は誕生した。
今回(2021年)の東京大会では、22競技が実施されているが、61年前の東京大会は、9競技のみだった。
陸上競技、水泳、車いすバスケットボール、パワーリフティング、卓球、車いすフェンシング、アーチェリー、スヌーカー、ダーチェリー。
日本からは53選手が参加し、スヌーカーを除く8競技に出場、10個のメダルを獲得している。
金1、銀5、銅4─。
唯一の「金」に輝いたのは卓球・男子ダブルスに出場した渡部藤男、猪狩靖典だった。
卓球は男女ともに、国立代々木競技場体育館で行われた。
だが場所は、メインアリーナではなく、南口ホールと呼ばれた手狭なスペース。そのため、席はほとんど作れず一般客は50人ほどしか入れなかった。
そんな中で男子ダブルスの試合は始まる。
渡部・猪狩ペアは1回戦不戦勝。2回戦、3回戦でともに米国のペアを破り準決勝に進出。
ここで、優勝候補イスラエルのハガク、ガリツキ組と対戦する。
(勝つのは難しい)
渡部と猪狩は、この時そう思った。
彼らが、優勝候補であることだけが理由ではなかった。渡部と猪狩は、この試合の前に男子シングルスにも出場していた。そこで、渡部はハガクに、猪狩はガリツキに敗れていたのだ。
しかし、ふたりは息を合わせて粘り強く闘った。結果、接戦の末に2-1で勝利を収める。そして11月12日の決勝戦で英国チームを破り、胸に金メダルを輝かせた。
■「普通じゃないか!」
渡部は、高校卒業後にトラックの運転手になった。ある日、荷台から丸太を下ろす作業中に事故に遭い脊髄を損傷、下半身が不自由になり車いす生活を余儀なくされた。
22歳の時のことだ。
失意の中、医師からリハビリとして卓球を勧められる。始めると、すぐに才能が開花、1年余りの練習でパラリンピック日本代表になったのである。
80歳を過ぎ、いまは東京・府中で姉の家族とともに過ごす渡部は、以前に当時をこう振り返っていた。
「暮らしていた福島から東京に行くだけでも大変でした。(バリアフリーの概念などない時代だから)救急車で半日かけて向かったんです。道路環境も整っていなかったから揺れ続けてね。
金メダルを獲得して、閉会式で当時皇太子妃であった美智子さまからトロフィーをいただき、握手してもらった時には感動しました。地元に帰った後、盛大な祝勝会を開いてもらったことも嬉しかったです」
それにしても、よく優勝できたと思う。
この時代にすでに、海外の選手たちはスポーツ用の車いすを準備していた。なのに、渡部、猪狩ペアは病院で使っていた車いすで試合に挑んでいたのだ。試合当日の渡部の車いすには「No18病棟」とマジックペンで記されていた。
パラリンピック初の金メダル獲得は、歴史的快挙。
だが、パラリンピックを経験することで、意識が改革されたことの方が大きかったと渡部は言う。
「衝撃を受けました。外国の選手たちは仕事を持っていて買い物に行き、お酒を飲んで楽しんでいる。普通じゃないか、と思いました」
当時、日本の障がい者のほとんどが職に就けていなかった。「税金のお世話になっている」と肩身の狭い思いをし、その引け目から彼らは閉じこもりがちだったのだ。
(それは違うんだ)と渡部は気づいた。いや、彼だけではない、他のパラアスリートも、そして、大会を見守った日本国民も。
障がい者にも生きる権利、発言・表現する自由がある。もっと積極的に世の中にコミットしていくべきだ。また、それを支える社会でなければならない。
いま、日本も多様性を受け入れる国へと成熟しつつある。 その歩みは、渡部藤男と猪狩靖典が「日本人第1号金メダリスト」となった1964東京パラリンピックから始まったと言っても過言ではない─。
文/近藤隆夫