ものまねで笑う—。いまの時代ではあたりまえのことですが、「正確さを追求する」ものまねが主流だった時代はそうではありませんでした。ものまねタレントとして40年以上に渡り第一線で活躍するコロッケさんは、独特の芸風で芸能界に飛び込み、「似ていて、笑える」オリジナルの世界をつくり出し、ものまねの概念を広げてきたレジェンドです。

熊本の高校を卒業後19歳で上京し、自分の芸をより多くの人に届けるべく挑んだ若き日の挑戦、チャンスを摑むための思考、芸を磨いていくにあたってのポリシーなどをお聞きしました。

■後編はこちら 「コロッケさんに聞くものまね人生 - 『観察』が『学び』を、『継続』が『進化』をもたらしてくれた」

■「モテたくて」はじめたものまね。熊本を飛び出しいざ東京へ

——コロッケさんのものまねのルーツは、子どもの頃、テレビの歌番組を見ながらお姉さんとやっていた遊びにあるのですよね。

単純に学校でモテたいということが理由で、有名人をそのままマネるものまねをはじめたのだけど、全然モテなくて……(苦笑)。それで、路線変更して、ふざけて笑わせるようなものまねになっていったという流れです。

高校生になると、地元の熊本のショーパブに潜り込んでステージに立たせてもらうようになり、高校を卒業してデザイン会社に就職してからも、夜はあちこちでものまねをやっていました。

——そこから会社を辞め、プロのものまねタレントを目指すために上京します。高校卒業の翌年ですから、かなり早い決断でしたね。

どこまで通用するかわからなかったのだけど、まずは「やってみよう」と。熊本で活動しているときに知り合った先輩に教えてもらった都内のショーパブに、それこそ道場破りみたいなかたちでレコードを持って乗り込んでいきましたよ。

——いまでは考えられない型破りな方法ですね。

いまではさすがに難しいかもしれないけど、時代が違いますから。実際、「君、本当にやれるの? 大丈夫だよね?」みたいな反応が多かったわりには、みなさんなんだかんだと受け入れてくれました。

最初に行ったのは池袋にあった『青春の館』というお店で、その他にもいくつか回りました。どこに行ってもそれなりにウケて、「うちの店で働かない?」と声をかけてもらうのですが、目指していたのはあくまでタレントでしたから、「また寄らせてもらいます」とやんわりお断りして、オーディション番組に出ようと芸を磨いていました。

最初こそショーバブを主体とした活動でしたが、東京でウケたことはすごく自信になりましたよね。

——いろいろなところに自ら飛び込んでいき、腕試しをしたというわけですね。

模索していくなかで、結果的にはショーパブで働くことになります。芸能関係者がよく訪れるお店なら、そこでチャンスを摑めることはわかっていましたから。そのひとつが当時、業界人や経済界の人がたくさん来ていた六本木の『シュガーボーイ』というお店で、コロッケという芸名もそこでつけてもらいました。

ただ、有名店ということもあって、なかなかメインどころで出ることはできなかった。それで、自分をメインにしてくれると誘ってくれた大塚の『バックスバニー』というお店に移ることにしたのです。場所を変え、そこでものまねをやり出したら芸能関係の人から声をかけてもらえて、『お笑いスター誕生!!』に出演するチャンスを摑めたというわけです。

■ものまねという自分の「武器」で大人と渡り合う

——『お笑いスター誕生!!』は、とんねるずやウッチャンナンチャンなど数多くの人気芸人を輩出したことで知られる伝説のオーディション番組です。この番組への出演がコロッケさんの芸能界デビューとなりました。そこにたどり着くまでは、夜の街の人々や業界人たちとの交渉の連続だったと思います。このときコロッケさんはまだ19歳。百戦錬磨の大人たちと渡り合うのは大変ではなかったですか?

あくまでも、僕のものまねという芸を業界の人たちがどう受け止めるかですからね。自分としては、要するに武器を持っている状態であって、その武器を業界の人たちが欲しがるか、欲しがらないか—ただそれだけのことです。そこに変な計算もなくて、うまく交渉できていたわけでもありません。

僕はそもそも口下手だったし、当時は熊本弁丸出しで言葉はほぼ通じていませんでしたから……(笑)。でも、「あいつはステージに上がると人が変わるぞ」みたいに思われていたようです。

——「どうにかしてチャンスを摑むんだ!」という熱意だけで動いていた?

そうですね。たくさんの人がチャンスを摑もうとしている東京という場所では、自分で動いて回らないことには次がないと感じていました。その感覚が染みついているので、僕らの世代はみんなしつこいですよ。「どこかにチャンスがないか」とずっと獲物を狙っている(笑)。

それこそいまのように、SNSを通じて仕事が舞い込むようなことは一切ないから、芸能関係者だという人を見つければ「こういうものまねをやっているんです」と声をかけまくったものです。スカウトされてどこかの芸能事務所にでも所属していればまた道のりは変わっていたのでしょうけれど、いきあたりばったりでした。

——心が折れそうになることもありましたか?

夢破れて…というのが嫌で、とにかく田舎に戻りたくない一心でしたね。みんな考え方は異なりますが、僕はもともとすごく小心者で、田舎に帰るのはカッコ悪いと思っていたからです。それこそまさに、人目を気にする小心者の考え方だと思います。

——コロッケさんのものまねを見ていると、とても小心者には思えません(笑)。

確かに、度を超えたものまねが多いので、そう思うでしょうね。でも僕は、臆病で小心者です。いまではほとんどが後輩になってしまって、みんなが慕ってくれます。そこであぐらをかくこともできるのでしょうけれど、そんな気持ちはまったくありませんね。

デビューして40年を超えましたが、だからこそネタを量産し続けなければと思っているのです。そして実際に披露して、「これ大丈夫? ウケてる?」と細かく確認したくなりますし、まだまだ自分のものまねのレベルを上げていく努力をしています。もちろん、もっともっと面白くなれると信じています。

■同じネタでも、徐々に短くなる持ち時間

——『お笑いスター誕生!!』には、1980年に出演されました。ここがプロとしてのキャリアのはじまりだったということですね。

いや、自分としてはまだまだセミプロという域を脱していないと感じていました。1987年に多くのものまね芸人が出演ししのぎを削っていた『ものまね王座決定戦』で優勝させていただくまでは、勢いだけでテレビに出ているだけの存在だったはずです。実際のところは、「このままだと1、2年で消えてしまう芸人だな……」という不安を抱いていました。

番組に出ても、最初の頃はイントロからAメロまでやらせてもらえていたちあきなおみさんの『喝采』のネタが、だんだん短くなっていくんですよ。いつしかイントロだけになり、そのうちステージを通り過ぎるだけになってしまうというね……(笑)。

——テレビ番組での自分のネタの扱われ方から、ニーズがわかってしまうということですね。そうなると新しいネタをつくって、どんどんチャレンジしていかざるを得ない。

その頃、夜はショーパブに出ていたので、いろいろなことを毎晩のように試していました。そこでつくり上げていったのが、「ものまねする人がやるわけがないことをする」という手法でした。それで、「シブがき隊の真ん中に岩崎宏美さんがいたら」といった、よくわからないネタをやるようになっていくわけです。いま映像を見ても面白いですよ(笑)。

——つくりあげてから長い年月を経ても、笑えるネタというのもコロッケさんならではという感じを受けます。

いや、「面白い」というより、「バカだな」って感じです……(笑)。でも、自分の基準としては「バカだな」と思えたら「いいネタ」というのがありますよね。『ものまね王座決定戦』では、僕のものまねに対して他の審査員の方が真面目にコメントするなか、司会の研ナオコさんが「こいつバカだからさあ」っていってくれることがあって。あれは最高の褒め言葉でした。

■「面白くない」という大先輩の指摘から得た気づき

——夢をひとつずつ実現すべく奮闘する若き日も、芸については日々改善を重ねていたとは思いますが、方針や考え方を大きく変える転機のようなものはありましたか?

芸についての考え方が変わった大きな出来事としては「本当のスタート」のところにあると振り返ることができます。本格的に上京する前、期間限定で上京した際に、ラジオ局でタモリさんと赤塚不二夫さん、そして所ジョージさんに自分のものまねを見てもらう機会を得たのです。

そこでは、桜田淳子さん、山口百恵さん、ちあきなおみさん、岩崎宏美さん、野口五郎さん、西城秀樹さん、世良公則さんのものまねを、形態模写でお見せして……。そのとき所さんに、「うーん、似てるけど……面白くないよね」といわれたんです。

——それが転機になった?

やっぱり、「面白くなきゃいけないんだ」なって素直に思えましたよね。当時のものまねって、俳優さんや歌手のものまねを、とにかく真剣に似せていくものが多くて、僕のようなスタンスのものがあまりなかった。他なら、動物のものまねとかもあったかな。僕はただ似せるよりは、どちらかといえば面白さに比重を置いたものまねだったのですが、まだまだ通用しなかったということです。

地元の熊本ではみんな笑ってくれたけれど、お三方にはどこか退屈だったのでしょう。そこからより面白さを意識して、誰にもできない世界を追求して、僕がこれまでやってきたような独自のものまねができていったというわけです。

——一流のアドバイスを素直に受け入れて、そこから変わることができた。

所さんの指摘を素直に受け入れられたのが大きかったですよね。熊本では人気があって調子に乗っていた頃ですから、「自分のものまねはこれでいい」って思ってしまってもおかしくなかった。でも、芸能界で売れることを目指すのであれば、田舎でウケているくらいでは話になりませんからね。

——コロッケさんのなかで、芸を磨くなかで意識していることはどんなことですか?

僕は日頃から、「気づくか、気づかないか」「やるか、やらないか」「できるか、できないか」という3原則を大切にしています。自分の間違いや目指すべき方向性に気づけるか。同じ努力をしても、それに気づけているかどうかで結果は大きく違ってくると思うのです。

そして、気づいたことをしっかりやれるか、実際の行動に移せるか、そこからやり続けることができるか、ということですよね。そんなサイクルができあがっていくと、追い求める自分に近づくことができると確信しています。

最初の気づきを与えてくれた所さんのアドバイスを受け入れずにそこで開き直っていたら、いまのコロッケは存在しなかったとあらためて思うのです。

■後編はこちら 「コロッケさんに聞くものまね人生 - 『観察』が『学び』を、『継続』が『進化』をもたらしてくれた」

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/石塚雅人