久光スプリングスの黄金期を築き、日本代表のキャプテンも務めたバレーボール選手・岩坂名奈選手がこの春、今季限りでの引退を発表した。

長く日本代表の主力選手としてプレーし、国民的な人気と知名度をもつ岩坂選手は12年間のプロキャリアを終える今、何を思うのか。

現役時代の栄光やその裏にあった苦悩や葛藤、そして引退後の未来について岩坂選手に話をうかがった。

  • 久光スプリングスに所属し、日本代表のキャプテンも務めたバレーボール選手の岩坂名奈選手

キャリアの中で嬉しかったこと、苦しかったこと

――バレーボールを始めた時期とキッカケを教えてください。

バレーボールを始めたのは中学1年生です。キッカケは、中学で仲良くなった友達がバレーボール経験者で、その子は中学でもバレーボール部に入る予定だったんです。私はバスケもやりたかったし、仮入部期間中にいろんな部活を試したいと思っていました。

でも、その子に連れられてバレーボール部の練習に参加してみたらすごい楽しくて、即決でした(笑)。

――中学校は強豪校だったんですか?

一生懸命みんな頑張っているチームでしたが、大会でも「どうにか一勝でも勝てたらいいね」っていう実力の学校でした。私は初心者でしたし、他の経験者たちが実力もあり目立っていましたね。高校からはできることも増えていって、バレーボールも一層楽しいと思うようになったし、達成感も得られるようになりました。

――では、キャリアの中で一番嬉しかったことは何でしょう?

うーん、一番というのは難しいのですが、12年間も久光スプリングスにお世話になって、たくさんのことを経験させてもらいました。優勝すれば嬉しかったし、最後の試合に勝てた時は「今までやってきてよかった」と思えましたね。

  • 久光スプリングス時代には優勝も経験した岩坂選手

――逆に、キャリアの中で一番苦しかったことは?

勝つ喜びもたくさんありましたが、その倍くらい苦しいこともあった気がします。私はプレーがすべてだと思っていたので、結果が出せなかったり、チームに貢献できなかったりしたときは苦しかったですね。でも、それを乗り越えて勝ったり、優勝できたりもしたので、そのぶん嬉しさも倍増しました。

――やはり現役時代は、プレッシャーがずっと付きまといましたか?

そうですね。若い頃は勢いもあり、「バレーボール楽しいな」っていう思いだけでしたが、どんどん結果を出していくうちに、「これからも結果を残さないといけない」と少しづつ自分を追い詰めていた気がします。

――苦しかった時は、どう対応されていたのでしょう?

バレーボールはチームスポーツですから、チームメイトたちに相談して助けてもらいました。そうすることで「その人の分も頑張らなきゃ」という思いも芽生えるし、「自分だけが苦しいわけじゃない。みんな同じ思いだ」と感じることで、少しずつ前に進んできました。

日本代表のキャプテンとしての苦悩と気付き

――日本代表では、どんな気持ちでキャプテンを務められたんですか?

キャプテンという大役を担ったのが、日本代表が初めてでした。歴代のキャプテンはみんなエース、または絶対的存在であることが多いのですが、私はそのどちらでもありません。「自分にできるのかな」と不安でしたが、いろんな方々の支えがあることも分かったので、やってみようと決断しました。

本当に最初は右も左も分からなくて、いろんな人に助けてもらいながら何とか頑張りました(笑)。

――引退会見では、心が折れそうなこともあったと語っていましたね。

チームとしても個人としても1シーズンごとに結果を残さないと思っていたのですが、自分自身が結果を残せず、成長できていたのかも分からない時期があったので。

――でも、そこで得たものも大きかったのではないでしょうか?

そうですね。やり抜くことの大切さや、人としてどうあるべきか、といったことはすごく学ばせてもらいましたし、これらはバレーボールを引退しても大事な教訓として生かされていくと思います。

岩坂さんにとっての「久光スプリングス」とは

――12年間在籍した久光スプリングスというチームは、岩坂さんにとってどんなチームでしたか?

最初の2年間は、先輩たちについていくのに必死で、あまりバレーボールの記憶がありません(笑)。でも、それから試合に出してもらう機会も増えて、プロの厳しさも知りましたし、結果を残せるようになってからは「絶対勝たなきゃいけないチーム」というプレッシャーもありました。でも、チームみんなで「結果を残そう!」という思いも増していったし、やっぱり一人ひとりの意識が高いチームだと感じますね。

  • 久光スプリングスでは、ブロックの中心となる「ミドルブロッカー」として活躍した岩坂選手

――チームメイトたちはどんな方々でしたか?

試合では勝ちたい一心でボールを打ったり、拾ったり、攻めたり、守ったりしていますが、実は人見知りだとか、普段とのギャップがある選手たちだと思います(笑)。みなさんが見ているプレー中の選手の姿と、オフのときの選手の姿は、それぞれまったく違う雰囲気だと思いますよ。

とにかく個性豊かなチームですね。私が中堅くらいのときは、よく先輩たちと一緒にご飯に行ったり、外に出掛けたりしていました。

引退の決断と今の思い「自分に合ったものを見つけ、また突き進みたい」

――引退のキッカケについて、改めて教えてください。

これまで「一年一年が勝負」という思いでプレーしてきましたが、昨シーズンから今シーズンにかけてコンディションが上がらなかったり、チームに貢献できる頻度が徐々に減ったりしていたんです。結果が残せないという意味で、「アスリート」としては引き際かな、と思って引退を考えるようになりました。

――それでも数々の功績を残してきていますし、やり残したことはないのでは?

はい、やり残したことはありません。最後に久光スプリングスで引退試合を計画していただいたのですが、自分自身、結構泣いちゃうかなって思っていたんですけど、むしろ楽しい気持ちが大きくなっていって、思ったほど泣かなかったですね(笑)。

「このチームで終わることができてよかったな」という達成感のほうが大きかったし、引退試合では純粋にバレーボールを楽しめました。

  • 5月29日に開催された久光スプリングスのファン感謝祭「令和三年 ご贔屓様感謝の宴」 提供:SAGA久光スプリングス

――それでは最後に、引退後はどのような活動を考えていますか?

今後の予定は未定で、まずは少しゆっくりしたいという思いが強いです。その間にやりたいことできればやりたいと思いますし、2023年に久光スプリングスは本格的に拠点を佐賀県に移します。私も九州出身なので、何かお手伝いできればいいなって考えています。

――やはりバレーボールには関わっていたい?

特別に「これをしたい!」というプランはないんですけど、中学からずっとバレーボールしかしてこなかったので、一般企業に勤める姿は想像できません(笑)。

でも、だからこそバレーボール以外の世界もいろいろ経験して、何か自分に合ったものを見つけて、そこでまた突き進んでいければ、と思います。あとはやっぱり久光スプリングスには本当にお世話になったので、何か恩返ししたいという思いは強いですね。

取材協力:岩坂名奈(いわさか・なな)

1990年7月3日生まれ。福岡県福岡市出身。2009年、東九州龍谷高から久光製薬スプリングスに入団。ポジションはミドルブロッカー。2017~2019年には日本代表の主将を務める。