私が住職を務める福厳寺では、毎年修行者を受け入れています。福厳寺の修行者は、必ずしも「寺の後継」「寺の息子」ではありません。普通に学生、あるいは会社勤めをしている、一般の人たちがほとんどです。

修行生活では、一定期間スマホの携帯・使用は禁止です。テレビも、パソコン許されません。当然SNSも利用することはできません。なぜそんな堅苦しい制限をするのかといえば、「外」に向いている意識を、内側に向けるためです。

SNS上の友達は本当の友と呼べるのか

私たちの体には、外界を感知するために、多くの感覚機能が備わっています。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚など、五感と呼ばれる感覚はその主な例です。インターネットに繋がったデバイスを持っていれば、私たちの意識は絶えず外に引きずられます。

24時間、休むことなく五感を刺激し続ける外部からの情報。24時間、休むことなく意識を奪い続ける他人の言動。

企業も個人も、人々の関心を惹こうと、SNSを使って絶え間なく情報発信をしています。企業はモノやサービスを売るため。個人は、寂しさを紛らわし、他者承認欲求を満たすため。他者承認欲求とは、他人から認められたいという欲求のことです。

誰かに「いいね!」してもらうため、リプライしてもらうために情報を発信し、また発信された情報に「いいね!」やリプライを返す。「いいね!」やフォロワーの数に執着するあまり、見せかけの自分を演出しながら、SNSの世界に友達を広げていく。

けれども、そうやって築いたSNS上の友達の数々は、本当の友と呼べるのでしょうか。もちろん、学校や会社など、リアルな現実の中で築いた友だちとの連絡手段としてSNSを使うなら問題ありません。

また、SNSを通じてリアルな関係に発展することもあります。しかしながら、寂しがり屋同士が、承認欲求に飢えた者たちがSNS上で結びつき、互いに傷の舐め合いをする関係は健全ではないし、そこで得た友は、本当はいなくてもいい友達なのかもしれません。SNSから離れてみると、その現実を痛感します。

修行僧らは毎晩、その日の出来事や心情を日記に書くのですが、今春入山した20代の修行僧がこんな記録を残していました。

「修行生活に入る前は、ずっとスマホやパソコンに向かう日々でした。Instagram 、LINE、 Twitter、 YouTubeを行き来していました。しかしながら私は、そうした仮想の世界に生きており、現在のようなリアルを生きていませんでした」

SNS漬けだった日々から離れてみると、あらためて自分にとって本当の友達とは何か、本当のつながりとは何かを考え直すことができるのです。

SNSの書き込みに振り回されないために

仏教とは、「悪しきことをやめ、善きことをなし、心を清らかに保つ」教えです。悪しきことをやめ、善きことをなし、心を清らかに保つことによって、心穏やかに、平安に過ごせるのです。

とはいえ、心穏やかに、平安に生きることは簡単ではありません。なぜなら私たちの心には「三毒」が潜んでいるからです。三毒とは、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)のことです。

貪瞋痴とは何か。貪は、欲やむさぼりのこと。欲しいものに執着する心を意味します。意地、見栄、自慢、傲慢も欲です。瞋は、怒りや嫉妬のこと。欲しいものが手に入らない、他人と比べて自分が優位に立てないと、怒りや嫉妬が湧いてきます。痴は、無知のこと。多くの情報や知識を持っていても、自分自身について知らないという意味です。

私たちがSNSの書き込みに一喜一憂し、感情を振り回されてしまう原因は、この三毒にあります。

見栄をはって背伸びした投稿をしたり、虚像を演出して見せたりする。「いいね!」が欲しい。もっと欲しい。得られればうれしいし。得られなければ落ち込む。本当は「いいね」と思っていなくても、自分もお返し欲しさに「いいね!」を押す。

自尊心をくすぐられるような書き込みがあれば、有頂天になる。一方で否定的なコメントや、攻撃的な書き込みを見れば、不安に駆られて自信を無くす。

他の人が自分より「いいね!」をもらっていれば、うらやんで嫉妬する。他人に自分よりたくさんのフォロワーがいることが分かれば、自分を卑下する。

自分の海外旅行や高級ホテルへの宿泊、グルメ料理をクールな友人と楽しむ、などのリア充を見せつける。他人のリア充を見て、落ち込んだり、羨んだり、対抗したりする。

「SNSは毒」とまで言われるゆえんです。しかし実際には、SNS自体が毒なのではありません。私たちの心に三毒があるのです。SNSの登場によって秘めていた三毒が露呈し、刺激、増長されているのです。

そのことを理解した上で、SNSを汚さないためには、次の3つの心構えを持って受信・発信することです。

1. 自分にも他人にも「心には三毒がある」ことを知って、受発信する。
2. 発信するときには、「三毒丸出しの恥ずかしい発信」をしない。
3. 他人の発信や書き込みを読むときには、「発信者の三毒と、それを読むときに活性する自分の三毒を、観察・分別」しながら読む。

の3つです。

「これは貪だな、これは瞋だな、これは痴だな」というように、三毒を冷静に眺められるようになると、SNSの書き込みにいちいち感情を持っていかれなくなります。

SNSは、誰もが発信できる便利で可能性に満ちたテクノロジーです。だからこそ、それを使う人の愚かさや賢さによって、全く違った結果がもたらされるのです。

優れた友「勝友」を得るためには

誰もが、「いい人と巡り会いたい」「本当の友達が欲しい」と思います。

仏教では、優れた友のことを「勝友(しょうゆう)」と呼び、勝友を持つことを奨励します。

同級生や同僚という枠を超え、妻や夫、親子、恋人、先生と生徒、上司部下など、あらゆる関係において勝友が得られたら最高です。

では、どんな友のことを勝友と呼ぶのでしょうか。お釈迦さまは勝友が持つ、4つの特徴を教えられました。

(1)全力で助けてくれる人

  • 無気力なとき(だらしない、興奮している、調子にのっている、酔っ払っている)などのときに守ってくれる人
  • 正常な判断ができなくなったときに、財産を守り、正しい行動に向かわせてくれる人

(2)苦しいときも楽しいときも一様に友である人

  • 窮地に陥っているときに、見捨てない人
  • 辛いとき、不安なときに安心させてくれる人

(3)自分のためを思って話してくれる人

  • 悪い道に入らないように忠告したり、大切な情報を教えてくれる人

(4)同情してくれる人

  • 落ち目になったときには心配してくれ、上り調子のときには一緒に喜んでくれる人
  • 人から悪口を言われたときに、弁護してくれる人

こんな友がいたら、絶対心強いですよね。生きるのが怖くなりますよね。

もちろん、これらすべての態度をもった人は稀です。それゆえにこのような人を勝友と呼ぶのです。

どうしたらこのような勝友を得られるのでしょうか。

勝友を得たいと望むのならば、まず自分自身が勝友となれるよう、努力する必要があります。「類は友を呼ぶ」という諺が教えるとおり、悪友には悪友が集まり、勝友には勝友が集まるからです。

けれども、いきなりこのような勝友になることはできません。勝友のフリをしても長続きはしません。カッコつけることなく、まずは、「ありのままの自分を認める」のです。自分のわがまま、自分の幼さ、自分のだらしなさ、自分の三毒を認めるのです。その上で、勝友の要素を一つでも、二つでも持って人に接してゆく。

地道に勝友的態度を他人に与え続けた人は、誰でも、必ず勝友を得ることができます。そしてこの世知辛い世の中を、幸福に生きられるようになるのです。