92年バルセロナ五輪で金メダル、96年アトランタ五輪で銀メダルを獲得した古賀稔彦は、2000年シドニー五輪への出場も目指したが、代表選考会であった4月の『全日本選抜柔道体重別選手権』で敗れる。
直後に現役生活に別れを告げた。指導者の道を歩み始めた彼は、2003年4月に町道場『古賀塾』を開設。そこで子どもたちに伝えていたこととは__。
■「指示待ち人間」になるな!
川崎市高津区にある『古賀塾』には、多くの子どもたちが集っていた。
古賀が指導する様子を、幾度か見せてもらったことがある。どのような教え方をしているのか興味があったからだ。
指導する古賀は、とても優しかった。決して怒鳴るなど相手を威圧するようなことはしない。叱る時も諭すような口調で話しかける。彼自身の経験則から、もっと厳しく指導しているのかと思いきや、そうではなかった。
稽古後に、私の感想を話すと古賀は言った。
「そう見えました(笑)。もう時代が時代だし、怒ったり怒鳴ったり、ましてや暴力的な指導をすることに意味があるとは思えないんです。(指導者から)やらされている雰囲気をつくりたくないんですよ。
人から怒鳴られてやらされているうちは、本当に意味で上達しません。もちろん最初は誰もが初心者ですから、いろいろと教えます。でも、そうする中で自分が考えて練習することを皆に身につけてもらいたい。やらされているだけの『指示待ち人間』になっては駄目。古賀塾は自発的な行動を芽生えさせる場にしたいんです」
そう話して、彼は続ける。
「20歳の時、ソウル(五輪)で負けて思ったんですよ。もっと強くなって頂点に立つためには、技術的、体力的なトレー二ングだけじゃなくて、内面的な部分を変えていかなきゃいけないと。
それまで私は(指導者から)言われたことに従ってそのままやっていたんです。こういう練習をしなさい、これを食べなさい、こういう生活をしなさい。全部、指示を受けてやっていました。私も『指示待ち人間』になってしまっていたんですね。
でも、いざ試合になったら自分しかいません。
ソウルの会場は普段とは違い、異様な雰囲気でした。それに飲まれてしまって、私は自分の力を出し切れなかった。でも普段から、もっと自分で考えて行動していれば対処できたはずなんですよ。
あれ以来、私は自分を変えました。
もちろん先生方の話は、しっかりと聞きます。でも、この練習は何のためにやるのかを考え、必要なのかどうかを自分で決めるようにしました。練習は、やらされるものではなく自分からやるものなんです。そうしないと、競技者である前に人間として本当に強くはなれないと思うんですよ」
ソウル五輪の2年後の1990年、古賀は体重無差別で争われる『全日本柔道選手権』に出場する。その際に、周囲から「ケガをするぞ! やめておけ」と言われたが、彼は柔道家としての成長を遂げるために自ら参戦を決断した。
また、92年のバルセロナ五輪直前、左ヒザに大ケガを負った際も自らの判断で青畳に上がり、闘い方を考え抜き金メダルを獲得する。
『指示待ち人間』のままだったら果たせなかった快挙だっただろう。
■「精力善用」「自他共栄」
現役を引退し指導者となった古賀を見ていて、ふと気づいたことがあった。
いつしか眼光の鋭さが消えている。表情も柔らかくなっていた。
そのことを指摘した時、彼は穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「やっとわかってきたんですよ。柔道とは何か、柔道は何のために必要なのかが。それに気づくまでに多くの時間を費やしました。
現役の時、私は試合に勝つことばかりを考えていました。だからギスギスした感じを周囲に与えていたかもしれません。結果を求めて毎日必死に練習し、その先にある勝利がすべてだと信じていたんです。
でも、そうではなかった。柔道の本質は、そこにはないんです。
嘉納治五郎先生は言いましたよね。『精力善用』『自他共栄』って。そのために柔道はあるんですよ。これを将来を担う子どもたちに伝えていきたい」
「精力善用」とは、柔道で培った力を、相手をねじ伏せたり威圧したり、あるいは自分の名誉として用いるのではなく、社会のために使うこと。
「自他共栄」とは、柔道で強くなったならば、それを誇り自分だけが栄えるのではなく、社会全体の繁栄に注力すること。
つまり柔道とは、自分だけが強くなればそれで良いというものではない。自分が強くなり成長する中で、他人の痛みを理解し、より良い社会を築くことに役立ててこそ意味のあるものだと。
講演会にも何度か足を運んだ。
柔道着姿で登場した古賀は、ユーモアたっぷりのトークで聴衆を魅了していた。
テーマは「いかにして金メダルを獲ったか」かと思いきや、そうではない。話の中に嘉納治五郎が常に登場する。そして、「精力善用」「自他共栄」こそが柔道の本質だと熱く語りかけていた。
ビッグネームであるが故に、高額のファイトマネーを条件にプロ(総合格闘技)から誘われたこともあったが、古賀はキッパリと断っていた。
他界した直後に、「指導者として、五輪、世界選手権で活躍する選手を育てる手腕の持ち主だったのに残念だ」といったコメントを発する人もいたが、それも古賀が追い求めたことではない。
『古賀塾』で彼がやり遂げたかったこと。それは、自らが感銘を受けた「嘉納治五郎の教え」を後進に伝えることだったのである。
文/近藤隆夫