いまから42年前…1979年1月、プロ野球界は騒然となった。球界の盟主を謳っていた読売ジャイアンツが掟破りに出たからだ。前年のドラフト会議前日に、巨人は江川卓の獲得を発表。プロ野球協約の盲点をついての行動であったが当然、ファンから認められるものではなくドラフト破りは大騒動に発展し年を越す。この「江川事件」に当時26歳だった小林繁は、自らの意志とは関係なく巻き込まれることとなった──。

  • 「情熱のサイドスロー」小林繁が、江川卓とのトレードを告げられた直後に電話をかけた相手とは?

    1979年から阪神タイガースのユニフォームを身に纏った小林繁は、古巣ジャイアンツ戦には特に熱く燃えた。(写真:毎日新聞社)

キャンプインの2日前、1月30日の夕刻、小林繁は、よみうりランド近くの自宅を出て都内のホテルに向かった。翌日にはチームメイトとともに羽田から宮崎へと飛ぶ。それに備えてのことだった。
翌31日、羽田空港に着くとチームメイトの姿が目に入った。彼らに近寄ろうとしたその時、小林は後ろから肩を叩かれる。振り返ると球団の庶務部長が立っていた。
「何か…」と言いかけたところでスーツの袖を引かれた。報道陣が駆け寄ってくるのが視界に入る。小林は引っ張られる格好で逃げるように走っていた。

「何ですか? 何処へ行くんですか?」
そう尋ねても、庶務部長は何も答えず国際線の出発ロビー方向に進んでいく。引かれるままに走った先には読売新聞社の社旗をはためかせた黒塗りのハイヤーが停まっていた。それを目にした時、小林はようやく事の成り行きが理解できた。
(そうか、トレードは本当にあったんだ。えっ、俺だったのか)

■巨人軍のまさかの暴挙

いまから43年前、1978年の「空白の一日・江川騒動」を振り返っておく必要があるだろう。
この年の11月21日、ドラフト会議の前日に読売ジャイアンツは暴挙に出た。巨人入団を望み野球浪人中だった江川卓の入団を、いきなり発表したのだ。いわば野球協約の盲点を突いた「空白の一日」。この時点では、どの球団にも独占交渉権がないとして江川の獲得を主張したのである。
世間は騒然となる。こんな非常識な行動を他の11球団が認めるはずはなかった。いくら巨人が人気球団であろうとも許されることではないと。 翌日の巨人が欠席したドラフト会議では、阪神タイガースが江川を1位で指名。結局のところ、江川を獲得したのは巨人なのか阪神なのかで揉めることとなった。

そして、12月21日にコミッショナー裁定が下される。
「巨人と江川の間で交わされた入団契約は認めない。阪神が江川に対して交渉権を獲得したことを認める」
そう話したコミッショナーの金子鋭は、翌22日にこう付け加えた。
「江川には一度、阪神との入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」

これにより、誰が江川のために巨人から放出されるのかが注目されることになってしまった。スポーツ紙の一面に連日、トレード候補者としてジャイアンツの選手の名が挙げられる。
新浦寿夫、西本聖、高田繁、淡口憲治、そして小林の名も。
この時、メディアから取材を受けた小林は、こう答えていた。
「自分はないでしょう。そもそもトレードなんか本当にあるのかな」

■阪神に行くしかないんだ

ハイヤーは高速1号線を走っていく。車中で小林は何も話さず、ただ茫然としていた。着いた先はホテル・ニューオータニで5710号室に連れていかれる。 部屋の中央には大きなソファが置かれていて、そこに長谷川実雄球団社長がひとりで座っていた。長谷川は、いきなり切り出した。
「もう分かっていると思うが、阪神タイガースに行ってもらいたい。これまで貢献してくれた君を手放したくはないんだが何とか事情を汲み取ってもらいたい」
ジャイアンツが江川の交換要員として小林を放出することは前日の夜に決まっていた。そのことを球団関係者は伝えようとしたが、すでに小林は自宅を後にしていた。携帯電話などない時代だ。庶務部長が空港で待つしかなかったのである。

「少し考える時間をください」
小林は、そう言った。
「早くしてくれ。あまり時間がない」
事務的な口調で話し、長谷川は部屋を出ていった。

あまりに短い時間での急展開に小林は混乱していた。
彼にとって選択肢は3つあった。

・決められたままに阪神に行く。
・「どうしても巨人に残りたい」と懇願する。
・「野球をやめます」と答えて引退する。

自分が巨人軍に必要とされていないのかと思うと感情的にもなったが、小林は結論を出す。
「巨人に残りたい」「引退する」といえば、チームメイトの誰かが私の身代わりとなってジャイアンツから放出されることになる。それは避けたいと考えた。   

(阪神に行くしかないんだ)と。

  • 1979年2月1日未明に開かれた記者会見。「同情はされたくない」と小林は毅然と話した。(写真:毎日新聞社)

■小林の決意を固めた王貞治の言葉

チームメイトたちが宮崎のホテルに着く時間を見計らって、小林は電話を掛けた。
相手は、王貞治。
「コバ、一生の問題だ。時間をかけて考えればいい。でも俺は、たとえチームが違ったとしてもお前と一緒の野球がやりたい」
王は、そう言った。
その言葉だけで十分だった。この時、小林は「阪神に行くしかない」と身の振り方を決めていた。それでも自分の考えが正しいのかどうかを確認したかったのだ。尊敬する先輩に「一緒に野球がやりたい」と言ってもらえただけで十分だった。

この日の深夜、トレード発表の記者会見が開かれ、小林はこう話した。
「結論から言うと阪神にお世話になることに決めました。野球が好きでこれからも続けていきたいからです。ただ、犠牲になったという気持ちはありません。

(マスコミの)皆さんにお願いがあるのですが、同情されるのは嫌なんです。あくまで阪神での仕事ぶりを見て評価してください」
飲めない酒を、この日ばかりは喉に流した。
(絶対に見返してやる)
そう心に強く誓いながら。

79年、阪神での1シーズン目、小林は22勝9敗、防御率2.89の好成績を収めた。対ジャイアンツは8勝0敗──。古巣を5位に沈めた奮闘は、次回で綴る。

文/近藤隆夫