20年前、35歳の若さで天国へ旅立ったアンディ・フグ。彼の振る舞いは常に紳士的で、優しい心の持ち主だった。だがある時、驚きの告白をした。「昔はギャングだったんだ。あのままでいたらいまの自分はなかった」と。

  • 伝説のK-1戦士アンディ・フグの若き日の素顔──。「昔はギャングだった。私の人生を変えてくれたのは…」

    いかなる状況でも常に全力で闘い、最後まで勝負を諦めなかったアンディ・フグ。その強靭なスピリットはカラテによって育まれた。

■26年前の忘れ難き会話

極真カラテの世界大会に出場していた頃、その後、K-1のリングに上がるようになってからも私は幾度となくアンディ・フグにインタビュー取材をしてきた。 いつも質問には丁寧に答えてくれる、物静かな口調で。それは、勝利の後も負けて心が打ちのめされている時も同じだった。

思い出すのは、『K-1グランプリ94』の数日後に話した時のことだ。
この大会でアンディはK-1参戦後、初めて負けた。米国人キックボクサーのパトリック・スミスに僅か19秒でマットに沈められたのだ。

高田馬場駅前にあった小さなビジネスホテルのティーラウンジ。硝子窓から差し込む夕陽が少し眩しかった。

体調は大丈夫なのか、ダメージは残っていないのかと私は最初に尋ねた。
薄っすらと傷跡を残した顔に笑みを浮かべてアンディが答える。
「大丈夫。ダメージもそんなに残っていない。ただ、悔しかった。こんなに悔しいのは人生で3度目だよ」
3度目?
「そうなんだ。1度目は17歳の時に出場したヨーロッパ選手権(1981年)。闘った相手の名前はもう忘れたけど打ちのめされたよ。2度目はフランシスコ・フィリォとの試合(1991年『極真カラテ・第5回世界大会』)。あの時は審判がストップをかけた後にキックを喰らい失神してしまった。意識が戻った時、怒りを抑えることができなかった。
カラテの試合において判定で負けることは、実はそれほど悔しくはなかった。でも倒されると悔しい。今回が3度目。私にとってのワーストマッチだ」

でも、それほど落ち込んでいるようには見えなかった。
「落ち込んではいないよ。もう一回闘って倒すしかない。落ち込んでいる時間の余裕もないんだ。もっとハードに練習をして次は絶対に勝つ!」
実際に5カ月後の再戦でアンディは、パトリック・スミスをKOしリベンジを果たした。

■カラテが私を救ってくれた

この日、話はアンディの若き日に及んだ。
「一目惚れ」
そう彼は言った。カラテを始めたきっかけを尋ねた時の答えである。
「10歳の時にカラテの道場へ行った。そこで『これが俺のやりたかったことだ』と直感したんだ。理由なんてない。それからは夢中になったね、それまでにやっていたサッカー以上に」

ご両親はカラテを始めることに賛成してくれた?
「賛成も何も私には父や母と過ごした記憶がほとんどないんだ。
父はフランスの外国人部隊に属する軍人で、戦場から戦場を渡り歩く生活を送っていた。そして私が14歳の時に死んでいる。会ったのは一度だけで一緒に生活することはなかった。 母も家にはいなかった。アルコール中毒で、どこで暮らしていたのかもわからない。
そんな私は母方の祖父母に育てられた。だから祖父が父であり、祖母が母だった。素行が悪かったにもかかわらず私に愛情を注いでくれた祖父母には、いまもとても感謝している」

素行が悪かった?
「ギャングだった。ギャングといっても子どもだったから人を殺したりはしていないけどね。親のいない子は結構いたし、悪い仲間30人くらいといつもつるんでいた。路上にたむろして毎日のように喧嘩をし、物を壊したり自転車を盗んだり店を襲ったりしていたんだ」

  • 常に紳士的に振る舞い、誰にでも優しく接していたアンディ。

それは何歳くらいの頃?
「10代半ばくらいだね。
そんな道を外しかけていた私を救ってくれたのがカラテだった。どうしてもカラテからは離れられなかった。そこには、私を惹きつける何かがあった。多分、私は強くなりたかったんだ。カラダだけではなく心の部分で。カラテはフィジカルだけで勝てるようなものではなかった。そこが他のスポーツとは異なる部分のように思えたんだよ。
カラテに『諦めない気持ちこそが大切なんだ』と教えられた。だから私は生きる場所を路上から道場に移すことができたんだ」

もしカラテと出逢っていなかったら?
「本物のギャングになっていたかもしれない。人としての道を踏み外していたと思う。10代半ばの頃は、いまの自分が想像できなかった。カラテが私の人生を有意義なものへと導いてくれた」

  • 1996年9月1日、大阪城ホールでのスタン・ザ・マン戦。序盤から積極的に攻め2ラウンドKO勝利を収めた。アンディのK-1通算戦績は47戦37勝(22KO)9敗1分け。

最後にアンディは言った。
「私はK-1のチャンピオンを目指す。絶対に諦めない」
握手をして別れる。窓から見える空はすでに暗くなっていた。
正直なところ、あの日、握手をしながらも私は、アンディがK-1チャンピオンになるのは難しいだろうと思っていた。
だが、2年後に彼は夢を実現させる。そして、その4年後に他界──。

「絶対に諦めない」
アンディの言葉が忘れられない。
あまりに苛烈、濃密な時間を生き抜いた男だった。

文/近藤隆夫、写真/真崎貴夫、SLAM JAM