みなさんは勉強が好きですか? 勉強と聞くと、つい英単語や歴史の年号や化学式を暗記して、ひたすら問題を解いたあのつらい受験勉強を思い出す人も多いはずです。就職し、社会で活躍するいまとなっては、「あの勉強はなんの役に立っているの? 」と感じることもあるのではないでしょうか。

  • 中野信子インタビュー これからの時代を生き抜く必須スキル! 「学び」を楽しめる力

でも、そんな義務的な勉強だけでなく、勉強には「よろこびとしての学び」があり、自分で学びを楽しめる力こそが、これからの時代を生き抜く助けになると脳科学者の中野信子さんはいいます。

「義務としての学び」と「よろこびとしての学び」

わたしは、「学び」にはふたつのかたちがあると考えています。

まずひとつは、なにかをできるようになるために避けることができない、基礎的なスキルを身につけるための「義務としての学び」。そしてもうひとつは、その上に積みあげていく「よろこびとしての学び」です。

わたしは学生時代、「よろこびとしての学びだけをやる」と心に決めました。大学は工学部に進みましたが、自分の分野とはまったく関係のない授業も進んで受けたのです。たとえば、「空間芸術論」や「比較文化論」といったように、自分の幅広い興味をベースに、文字通り食い散らかすように勉強しまくりました。そこには、高校までの受験勉強とはまったく別物の知的興奮があったのです。

もちろん、大学に入学するまでは「義務としての学び」を続けていたわけです。いかに労力をかけることなく、必要な箇所の勉強に集中するか――。

これは、受験勉強の定石です。とにかくできなかった箇所は何度も繰り返し、最終的にできるようにしておくことを意識していました。もちろん、絶対に出るとされる問題に関しては1点たりとも落とさないように頭に叩き込みます。そんなスタイルの勉強をどれだけ積み上げられるかが、受験のポイントだからです。

これは社会人が勉強するときも同じことで、やはり学びとは、「義務」と「よろこび」の二層構造になっています。語学ならば、まず基本的な文法は絶対に理解する必要があるでしょう。また、知っておくべき単語やフレーズなど、必須とされる基礎知識もある。そうした知識は、まるで筋トレのように積み重ねる部分です。

でも、当然ながら、語学を学ぶことはそのような勉強にとどまるものではありませんよね。義務としての学びがある程度できれば、そこからは楽しい「よろこびとしての学び」が待っています。

言葉が通じないと思っていた相手を笑わせられたときや、異文化の人が持つ価値観や思考に触れて新しい発見をしたとき……。そんな体験を通して得られる学びこそが、人間にとって大きなよろこびとなるのです。

しかし、世の中には勉強を途中で嫌いになってしまったり、学ぶことをつらく感じていたりする人がたくさんいます。それはおそらく、「義務としての学び」の比重が大きくなり過ぎているのです。そして、学ぶことの楽しさにたどり着いていないため、勉強がいつまでもつらく退屈なものになってしまうのだと推測できます。

わたしはスポーツが苦手ですが、そもそも筋力トレーニングというもの自体が嫌いでした。たしかに筋トレはすべてのスポーツの基礎になるものです。でも、筋トレは単純に退屈だった。それよりも、さっさとみんなでスポーツをしたほうが楽しくないでしょうか? それが楽しさであり、よろこびだと思うのです。

ただ、スポーツをするなら「筋力があったほうがダイナミックなプレーができたりスピードが出せたりして、より楽しむことができる」ということは忘れてはなりません。そうした基礎的な訓練は、およそスキルが必要とされるものごとすべてにあてはまるでしょう。

勉強に置き換えるなら、「義務としての学び」を積み重ねて、基礎的な力やスキルをある程度身につけなければ、いつまで経っても「よろこびとしての学び」に到達できないということになります。その結果、勉強に飽きてしまったり嫌になったりして、半ばで挫折することになるのです。

人間とは、「新しい学び」を求める生き物

勉強するときは、まずその分野の基礎的な知識をしっかり押さえることが大切になります。まず、「義務としての学び」をある程度の期間続けることは避けられません。気をつけたいのは、「義務としての学び」は、ある程度短期間に集中的に取り組むこと。ともかく勉強は「やらされている」と感じてしまうと絶対にうまくいきません。

脳科学の観点では、人間はそもそも「学ばないこと」がストレスになる生き物です。我々人類は、はるかむかしに獲物が豊富なアフリカ大陸を出て、少しずつ北上しユーラシア大陸へと広がっていきました。これには様々な理由が考えられますが、そもそも人間はずっと同じ環境にとどまることに耐えられない、本質的に「学びを求める生き物」だと見ることができます。

同じく、現代に生きるわたしたちも、日常生活でずっと同じことを繰り返していると嫌な気持ちになったり、いままでとは違う天地を求めて転職や移住を試みたりします。そのような行為もまた、より広い意味でいえば新しい学びを求めているのです。

かつて、人類がアフリカ大陸を出てユーラシア大陸を目指したように。

ただ、それが自分から求めた新しさではなく、人から与えられたり、強制されたりした新しさだと、自分の気持ちとずれて嫌になってしまう。そして、その先にある「よろこびとしての学び」に到達できなくなります。

本来は、こうした勉強に臨むうえで前提となる姿勢や考え方と、その先にある楽しさやよろこびについて小学校の段階からしっかり伝えるべきですが、教育システムとしてうまく機能していない現状があるのかもしれません。こうしたことを書くと、受験業界をはじめ、既存の教育システムのなかにいる人たちから「義務として学びを続けることにこそ意味がある」という意見が寄せられます。

基礎固めをひたすら続けることで、いわゆる「やり抜く力」が養われ、より多くの可能性も見えやすくなるという主旨ですが、本心としては、とにかく偏差値を上げればいい大学に入れるということなのでしょう。そして、いい大学を卒業すれば、仕事を自分で選択できる環境をつくることができるはずだ、と。

しかし、わたしはそれとは異なる意見を持っています。たしかに、そのような思考のパラダイムでやっていける社会が、1990年代半ばくらいまではありました。もちろん、それは現在でも根強く残っていますが、同時にどんどん崩壊しつつあると感じるのです。

たとえば、がんばって入った大企業があっさりと倒産したり、整理統合されたり、外資系企業の子会社になったりすることが、もはや当たり前の出来事になっています。また、いまキャリア官僚の合格者数に占める東大出身率は約17%(2019年度人事院の調査)で、2010年度の32.5%(2011年度同院調査)の約半分とかなり減っています。つまり、偏差値の高い大学に入って、国家試験を通過して官僚になることが「得ではない」と思われているわけです。

そんな世の中の流れを鑑みると、わたしは基礎学力が大事だという点にはもちろん同意しますが、はたして受験や試験勉強に打ち込んで学歴や資格を得たからといって、それで安泰とはいえないと感じるのです。

そうではなく、自分で自分を「よろこびとしての学び」に到達させる力こそが、これからの社会を「生き延びて」いくうえで問われているのではないでしょうか。受験合格や資格取得での成功が人生の選択肢を広げる面はたしかにありますが、いまのように社会全体が遷移期にあるときは、それだけではさほど有効な手段でもないと思います。

構成:岩川悟(slipstream)、辻本圭介 / 写真:榎本壯三

※今コラムは、『「超」勉強力』(著:中野信子/山口真由 プレジデント社)より抜粋し構成したものです。