神奈川県の大船~湘南江の島間(6.6km)を結ぶ湘南モノレールは、1970(昭和45)年3月7日に大船~西鎌倉間が開業し、1971(昭和46)年7月1日に湘南江の島駅まで全通を果たした、世界的にも珍しい懸垂型モノレールだ。

  • 「祝開通」のヘッドマークを付けて湘南深沢駅付近を走行する初代車両300形(写真提供:湘南モノレール)

    「祝開通」のヘッドマークを付けて湘南深沢駅付近を走行する初代車両300系(提供 : 湘南モノレール)

開業から今年でちょうど50周年を迎えるが、この間に沿線風景はどのように変わったのか。同社から提供された開業当時の写真を手に、大船から江の島まで歩いた。

なお、湘南モノレールの設立から開業までの経緯は、三菱グループ出身で湘南モノレールの専務も務めた村岡智勝氏が記した『湘南モノレール 設営の記録』(1971年発行。以下『設営の記録』)に詳しいので、事実関係はこの資料によることにする。

■湘南モノレールが設立された経緯は

湘南モノレールは、フランスで技術開発されたサフェージュ式懸垂型モノレールの実用化をめざし、設立された日本エアウェイ開発という会社が中心となって、1966(昭和41)年に設立された。

この日本エアウェイ開発という会社は、三菱重工業、三菱商事、三菱電機の3社が中心となって設立されたものであるから、実質的には三菱グループが湘南モノレールの設立および経営の主体だったと言っていいだろう。

ただし、路線の約90%を「京浜急行自動車専用道路」(当時、京浜急行電鉄が運営していた有料道路)上を利用したことや、「三菱グループは交通事業にはズブの素人」(『設営の記録』)であったことから、「鉄道運営の中心たる運転関係、鉄道営業実務等の中核」(『設営の記録』)として京浜急行電鉄が湘南モノレール設立に参加した。このような経緯から、設立時の授権資本10億円の60%を三菱3社と京浜急行電鉄が持ち、役員も三菱3社、京浜急行電鉄、日本エアウェイ開発から大部分を選出したという。

なお、実際の工事施行は、起点である大船駅から湘南深沢駅まで鹿島建設、湘南深沢駅から西鎌倉駅まで戸田建設、西鎌倉駅から終点まで大成建設に分割発注し、全体を三菱地所が監理する体制で進められた。

では、開業当時の写真を見ながら、大船駅から散策を開始しよう。湘南モノレール開業直前の大船駅周辺の様子は、『設営の記録』の中に見事に描写されている。長めの文章なので、途中省略しながら引用する。

「そもそもこの大船地区は、東海道線と横須賀線という二つの国鉄路線の合流分岐点でありながら、従来は住宅地等としても余り発展していず、若干の工場などが中心となった、地方的にも比較的淋しい土地がらであったのであるが、(中略)桜木町から磯子までの根岸線と称する国電が遠からず大船まで延長されて桜大線となる予定でもあり、これには同駅西口からドリームランド行跨座型五キロの設営もあり(これは不幸にしてその後休止しているが)、東口には当社湘南モノレールの起点がおかれることにもなり、大船は一躍交通の要衝として喧伝されることになったのである」

  • 大船駅での開通記念式典。1970年3月7日撮影(提供 : 湘南モノレール)

  • 大船駅に停車中のモノレール車両(提供 : 湘南モノレール)

洋光台~大船間の延伸開業により、根岸線が全通したのは1973(昭和48)年のこと。湘南モノレール開業時、根岸線はまだ大船駅に到達していなかったものの、大船が交通の要衝として発展するのは確実な情勢だった。

そのため、大船地区における用地買収は、「モノレール設営による利便と繁栄との利益期待のために、比較的協力的な態度を示す人々」が多かった反面、いわゆる「ゴネ得」を狙う人もいて難航したという。しかし、湘南モノレールは1970年3月15日の日本万国博覧会(大阪万博)開幕までに、なんとしても開業を間に合わせなければならず、用地買収・工事を急いでいた。

なぜなら、「同博覧会には会場周辺を巡回する4,300メートルの日本跨座型モノレールが活動することになっており、来場者中モノレールに関心のある内外人多数にモノレールは跨座型という強い印象を与えたまま帰すことなく、引き続き“懸垂型は湘南モノレールで”と誘引することは極めて必要」(『設営の記録』)だったのだ。

このような事情から、湘南モノレールの用地買収にあたっては足元を見られ、「無法の要求に屈せざるを得なかった」(『設営の記録』)ことも、たびたびあったという。

  • 大船駅付近(以前、TSUTAYA大船店があったあたり)を走行するモノレール車両(提供 : 湘南モノレール)

  • 大船駅付近の県道上を走行するモノレール車両(提供 : 湘南モノレール)

さて、大船駅を出発した湘南モノレールは、小袋谷跨線橋付近でJR横須賀線をオーバークロスする。湘南モノレールが旅客営業する鉄道線を跨ぐのは、現行線ではここが唯一のポイントとなる(当初は片瀬で江ノ電上空を横切る計画もあった)。

横須賀線をオーバークロスすることについて、当時の国鉄の石田総裁が、「この2分毎に1方向1列車が通過する国鉄線上を懸垂型車両が横切る場合万一モノレール車体が墜落するようなことがあってはとの懸念から難色を示した」(『設営の記録』)が、「当社からサフェージュ式懸垂車両の二重安全装置の説明をなしたため車両転落の如き危険は絶無に近いとの安心感を確認」(『設営の記録』)されたと記録されている。

■西鎌倉~湘南江の島間は苦労の連続だった

ところで、湘南モノレールの工事は1967(昭和42)年に湘南町屋~湘南深沢間から着工された。同区間は用地確保や工事内容が比較的容易だったのである。

したがって、最も早く竣工したのも同区間であり、1969(昭和44)年1月中には支柱や桁(けた)の架設・調整が完了し、試運転が可能な状態になった。『設営の記録』に記された試運転開始の様子は以下の通りである。

  • 工事中の風景。富士見町駅付近から小袋谷跨線橋方面を望む(提供 : 湘南モノレール)

  • 湘南町屋駅付近を快走する湘南モノレールの電車(提供 : 湘南モノレール)

  • 建設中の深沢車庫(提供 : 湘南モノレール)

  • 車両の駆動部の吊上げ作業(提供 : 湘南モノレール)

「かねて三菱重工三原製作所で製作中の最初の2両の車両は2月末現場に到着、直ちに路線上に吊り上げて作業をなし、3月から約700メートルの区間の試運転を始めた」

湘南深沢駅から先、モノレールは鎌倉山に向かって上り坂を駆け上がるが、当時、この坂が始まるあたり(現在、ボウリング場があるあたり)に有料道路のゲートがあった。坂の途中でモノレールは有料道路を外れて右方向に進み、続いて距離の長い隧道(トンネル)に突入する。隧道を出た先で再び有料道路上に戻り、その先に設置されているのが西鎌倉駅だ。

  • 湘南深沢駅付近(提供 : 湘南モノレール)

  • 現在、ボウリング場がある「深沢支所西」交差点付近。京浜急行有料道路の深沢料金所が見える(提供 : 湘南モノレール)

戸田建設が担当したこの西鎌倉駅までの区間は、周辺の地形などから難工事だったのではないかと思われるが、意外にも「戸田建設の部分は、隧道工事を併せ比較的順調に進展し、途中隧道工事のため井戸水涸れのようなこともあり、又西鎌倉駅用地の紛糾のため相当手を焼くなどのことがあったが、この区間だけは大した遅延はなかった」(『設営の記録』) という。

用地買収でとくに苦労したのは、西鎌倉駅から終点の湘南江の島駅に至る区間であったことが記録されている。片瀬山駅用地は、周辺の住宅地を造成していた西武鉄道から「約540坪の土地を坪10万円で買付けたのは、1969年12月末のことであった。この土地も、最初坪4万円位であったのを、時期を失したため、このような値上がりに甘んじねばならなかった」(『設営の記録』)そうだ。

  • 西鎌倉~湘南江の島間開通式当日の西鎌倉駅(提供 : 湘南モノレール)

また、目白山下駅用地については、「その辺一帯を所有する鎌倉料理店“大海老”主人と折衝の結果、約1億3千万円で2,500坪を買収」(『設営の記録』)したとのこと。さらに、隧道を掘削した竜口山の地権者である本蓮寺、常立寺との地代交渉も難航するなど、土地の価格が右肩上がりに上がっていた時代における苦労が、『設営の記録』中の随所に綴られている。

結局、「当初の計画の際、設定した建設費予算35億円というのは、1キロ当り5億円であったが、(中略)最初予想してなかった工事の出現、時間がかかったための物価騰貴、工期が長引いたための経費の増大等が重なり、(中略)65億円、即ち、1キロ当りでは約10億円というのが、最終段階に於ける、建設費と見なければならなくなった」(『設営の記録』)という。

  • 目白山下駅付近。有料道路の料金所のボックスが見える(提供 : 湘南モノレール)

  • 目白山下駅付近の現況。江の島側の料金所は当初、龍口寺付近にあったが、後に一般道が合流するこの場所に移動したという地元の方の証言が得られた

村岡氏は、「この価格は地下鉄の三分の一乃至四分の一であって割安なることは言う迄もない」(『設営の記録』)とするが、モノレールが新時代の乗り物として期待されつつ、その後ほぼ広まりを見せなかったのは、思ったほど安くない建設費が一因であるのは間違いないだろう。