劇場版の撮影は、テレビシリーズと並行して行われていたため、そのスケジュールは過酷そのものであったという。「さいたまスーパーアリーナでのロケで、僕は初日と最終日(5日目)しか行かなかったのですが、芳賀さんは出演シーンがたくさんあったので、初日こそ元気ありましたが5日目には目も合わせてくれないほど、ストレスで押しつぶされそうになっていました」と当時の厳しい状況を振り返った。

白倉氏は「テレビと映画、どちらの撮影も止められないので、どうしても昼テレビを撮って、夜に映画を撮る、というスケジュールになる。そうすると、両方に出演している人の撮影時間がどんどん長くなってしまうんです。最長で、連続72時間の撮影ということもありました。映画の製作発表をやるという日なんて、夜が明けるまで、ギリギリ日陰になるところで撮影をしていて、もうダメだ、ギブアップ!という段階になって半田健人、芳賀優里亜を車に乗せて会場まで向かったんです」と、待ったなしのハードスケジュールで、俳優たちの疲労がかなりたまっていた状況を説明。半田がこれを受けて「会場に行ったら、同時上映の『爆竜戦隊アバレンジャー(アバレサマーはキンキン中!)』チームが元気なんですよ(笑)。反対に『555』チームはグッタリしていて、みんな10代の若者とはいえない目をしていた」と、遠い目で当時を回想した。

話題が『仮面ライダー555』テレビシリーズに移ると、半田が初主演作でヒーローを演じることについて特に気をつけたことは?という質問がMCから投げかけられた。半田は「当時は、思考自体が若かったですから、気をつけるレベルが甘かったように思います。人との挨拶にしても、ちょっとトガっていた部分があったかも……。逆に10数年たったいま、こうやってリクエストを募れば1位をいただけるなど、僕を"仮面ライダーファイズの乾巧"として捉えてくださっていることのほうが重要。これから先の自分のほうが、"仮面ライダー"であるということが影響してくるのではないか」と、放送から10数年たった現在においてなお、自身に「ヒーロー」を重ね合わせてくれるファンの思いに感謝するコメントを残し、観客からの大きな拍手を浴びて笑顔を見せた。

白倉氏は半田との出会いを回想し「出演が決まって初顔合わせというとき、新宿を歩いていると半田くんがいきなり『あのビルは……』『このビルは……』と建物の解説を始めたのには驚いた。しかも『新宿よく来るの?』と聞いたら、『初めてです』って言うし。ヘンな人だなと(笑)」と、後のバラエティ番組で見せる「ビル・建物マニア」の一面をすでに披露していたことを明かした。当初、脚本の井上敏樹氏が構想していた乾巧、園田真理は半田、芳賀よりも年齢設定が上であったそうだが、両者がキャスティングされたことによってキャラクターの年齢を引き下げることになったという。白倉氏から「半田が18歳、芳賀が15歳」と聞いた井上氏は「若すぎんだろ、まだ子どもじゃねえか!」と反対されていたことも打ち明けた。

『パラダイス・ロスト』をはじめ、『仮面ライダー555』のすべての脚本を1人で書き上げた井上敏樹氏について、半田は「放送中、一緒にいた時間はそれほど多くないはずなのに、僕の性格をだいたい知っている。ぜんぶ見透かされている感じでした」と、井上氏のただならぬ眼力を絶賛。すると白倉氏が「村上幸平というスパイが情報を流しているのかも。彼は途中から井上邸に住んでいたからね(笑)」と、井上氏と濃密な時間を過ごすことの多かった仮面ライダーカイザ/草加雅人役・村上幸平から、半田の情報が伝わっているのではないかという意見が出た。

『仮面ライダー555』の物語は、人間を守る者(巧、真理、啓太郎たち)と人間に敵対する者(オルフェノク)とをほぼ同じウエイトで描き、複雑でありながら人間の感情に響く熱いドラマが展開されている。ストーリー展開についてどんな思いを抱いたか?という問いに半田は、「当時はその日のスケジュールをこなす、セリフを覚えるだけで精一杯という部分があった。最近、ブログで『555』のレビューを書くため映像を改めて見直したとき、自分の芝居を客観的に見ることができた。ストーリーの深い部分にも、今気づいたところが多い」と、改めて『555』のストーリーを最初から見つめ直し、その面白さを噛みしめるようにレビューブログを書いていることを説明した。

「俺には夢がない。でもな、夢を守ることはできる」というセリフ(第8話)にあるとおり、巧が「夢を持たない」キャラクターだということについて半田は、「その点は僕と真逆なんですよ。僕は中学生くらいのときから芸能界に入りたいという夢を持って、早々にその夢を叶えた人間でしたから。巧は自分を常に押し殺そうとする人物像で、当時は彼の行動や言葉が理解できなかったんです。でもようやくこの齢になって"ああ、こういうときってあるよね!"となんとなくわかってくるようになりました」と、年月を経て当時の巧の心情を理解したことを語った。