映画『カメラを止めるな!』に関しては、事前に情報を耳に入れないようにしようとしても、自ずと入ってきている状態であった。

しかし、そんな状態でも、この映画見て、かなり驚いた。もちろん誰もが驚くところにも驚いたのだが、私が驚いたのは、見終わったあとの、晴れ晴れした感覚に対してだった。

  • 映画『カメラを止めるな!』

そう思ったのは、ゾンビ映画に対するイメージが大きかったからかもしれない。今まで抱いていたゾンビ映画のイメージは『カメ止め』に漂うハッピーさとは正反対であったということである。

また、ゾンビ映画のファンというのは、あるきまった層だけと思われていたところもあったと思う。あきらかにゾンビが出ている映画であっても、ゾンビという⾔葉は極⼒使わないようにPRをしているケースもあった。

それは、権利の問題というよりも、恋愛ものであるとか、家族ものであるというイメージをつけたほうが、より多くの人が見てくれるという意図があったのではないかと思う。

『カメラを止めるな!』にしても、もちろん作った側も、配給する側も、そんなお約束があったからこそ、ここまでのヒットにつながるとは思ってもいなかったのではないか。それは、ゾンビ映画に対する偏⾒があったというよりも、ある⼀部の⼈が熱狂するジャンルだと思われていたからだろう。

しかし、口コミで人が人を呼ぶ時代に、そんなことは杞憂にすぎない。それに加え、実際にも、この映画は家族の物語でもあった。

ゾンビ映画のイメージが変わった

さて、私が本当に驚いたのは、⼈が危機的状況にあるときに⾒せる猜疑心や本性みたいなものを描くことがゾンビものの根幹にあったと思うのに、『カメ⽌め』には、それがなかったことである。

例えば、近年の『アイアムアヒーロー』は、ゾンビから逃れた人々が自治区のようなものを作っていて、その中に独裁者が生まれる構造を描いていたし、『新感染』であっても、列車の中には、いかにも「老害」といった男性とその取り巻きの利己的な考え方が、ゾンビよりも醜悪に描かれていた。

生きるか死ぬかの状況であるからこそ、人々の「力」に対する欲望があらわになるシーンは外せないものだ。しかも、力の勾配が描かれるからこそ、女性がそこで理不尽なめにあう様子なども描かれた。人間関係のリアリズムを突き詰めるとそういう表現は外せなくなるだろう。

※ここからネタバレ含みます。











































































晴れ晴れした気持ちで映画館を出られる理由

しかし、『カメラを止めるな!』には、それがまったくないのである。もちろん、前半のパートでは、監督が暴力的、威圧的にふるまうのであるが、見ていくと、それが映画の中のフィクションの⼀部であったからこその表現であることはわかる。全体を通してみると、こうしたジャンルの映画にありがちな、悪ノリやホモソーシャル、ミソジニーのようなものがまったく感じられないのである。

そこには、この映画がゾンビ映画であってゾンビ映画でないということは大きく関わってくる。本当の生死がないからこそ、人間の醜さを描かないで済んでいるのだが、それこそが、ひとつのアイデアでもある。

もちろん、登場人物には利己的に見えるものも何人もいる。本作は、300万円で作ったという話が有名であるが、そんな経験をしている監督が作っただけに、製作費を抑えようとするプロデューサーもいれば、現場を乱す俳優もいる。

しかし、最終的には、そんな人たち全員が、「負(マイナス)」ではなく「正(プラス)」に向かって結集する。悪く見えた人にも、蓋を開けてみれば良いところはあって、最後にそれがひとつのところに着地するからこそ、晴れ晴れした気持ちで映画館を出られるのである。

かつて、そんなゾンビ映画があっただろうか。もちろん、そんな新しさのおかげでヒットしたという話にもできるのだが、ここで言いたいのは、90年代以降には、負の物語を冷笑することで、自分のアイデンティティのモヤモヤを消化していた時代というのが確実にあったということだ。

多くの人がそうであるように、私も、まったくそんなところがなかったわけではない。それは90年代にサブカルチャーを経由し、タランティーノが紹介するような、誰もが観るわけではない、各国のマニアックな作品を見てきたような人ならば、通ってきた道でもあると思う。そして、ゾンビというのは、その最も真ん中にあったと思うのだ。

聞けば『カメ止め』の監督は、まだ34歳だという。随所にゾンビのお約束は入れながらも、業界へのシニカルで笑える仕掛けを入れつつも、その根底に漂うものはダークな感情ではなく、ハッピーそのものだ。

これを見たとき、確実に90年代サブカルチャーの恩恵を受けた世代から、また一つ世代交代が進んだと感じた。

もちろん、ハッピーで性善説的なエンディングというのは、気持ちもよいけれど、現実にはありえないユートピアのようにも映ってしまうということもある。映画好きや、うるさ⽅の評価が、「おもしろい、おもしろいけど……」となってしまうのには、そういうところがあるのかもしれない。

私個人としては、社会のひずみを告発するために、怒りや悲しみを克明に描く作品もまだまだ必要だとは思うし、どちらかというと好んで見てしまう。しかし、娯楽やエンタメとして、ゾンビというジャンルをこんなに晴れやかに描くというチャレンジにはわくわくする。もしかしたら、上の世代には決して描くことのできなかった冷笑的ではない新しいエンターテイメントを求めて、 映画館に何⼈もの観客が⾜を運んでいるのかもしれないと思うのだ。

著者プロフィール: 西森路代

ライター。地方のOLを経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーに。香港、台湾、韓国、日本などアジアのエンターテイメントと、女性の生き方について執筆中。テレビブロスで、テレビドラマの演者についてのコラム「演じるヒト演じないトキ」連載中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。

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