伊豆箱根鉄道は駿豆線(三島~修善寺間19.8km)と大雄山線(小田原~大雄山間9.6km)を中心に、十国峠ケーブルカーや箱根芦ノ湖遊覧船などを運営する。昨年11月5日に会社創立100周年を迎え、今年5月26日には、当初は別会社が開設・運行した駿豆線の開業120周年の記念イベントが行われた。

  • 三島広小路~沼津駅前間を結んだ伊豆箱根鉄道軌道線

同社にはかつて、駿豆線の三島広小路駅と沼津駅前を結ぶ軌道線(三島と沼津の地名を取って「島津線」とも呼ばれた)という路面電車もあったが、1963(昭和38)年に廃止され、いまとなっては人々の記憶からも薄れ始めている。今回はこの伊豆箱根鉄道軌道線の廃線跡を探索してみることにした。

伊豆箱根鉄道の成り立ちは

まずは伊豆箱根鉄道の成り立ちを簡単に説明しよう。同社で最も歴史の古い路線は駿豆線で、豆相鉄道という会社が1898(明治31)年に三島(現・下土狩)~三島町(現・三島田町)~南條(現・伊豆長岡)間を結ぶ蒸気機関による鉄道の営業を開始したのが始まりだ。

続いて1906(明治39)年、水力発電による電灯事業を手がける駿豆電気鉄道によって軌道線の運行が開始される。三島六反田(現・三島広小路)~沼津駅前間を電車が走り、これは静岡県内では初の電車運転事業だったという。開業当初は全線を約40分、後に約24分で結んだ。そして、大雄山線が大雄山鉄道により営業開始されたのは1925(大正14)年のことだ。

  • 1906(明治39)年、黄瀬川を渡る開通式当日の化粧電車

このように、当初は別会社としてスタートした3路線だが、1912(明治45)年に駿豆電気鉄道が伊豆鉄道(旧・豆相鉄道)を買収し、その後も2度の資本変更を経て、1917(大正6)年に駿豆鉄道という会社が新たに発足する。この駿豆鉄道が現在の伊豆箱根鉄道の基礎となる。さらに1941(昭和16)年、戦時統合(陸上交通事業調整法)により駿豆鉄道が大雄山鉄道を合併したことで、3路線が同じ会社になる。

戦後は1957(昭和32)年に伊豆箱根鉄道に社名変更後、1963(昭和38)年に軌道線が道路舗装問題やモータリゼーションの波に押されるなどして、惜しくも廃止された。

三島広小路駅には軌道線乗り場の面影が

それでは、伊豆箱根鉄道軌道線廃線跡の探索を開始することにしよう。

軌道線の始点である三島広小路駅は、三島駅から駿豆線で1駅。ここで今回の散歩に同行していただく伊豆箱根鉄道総務課長の芹澤章裕氏と落ち合い、軌道線廃止直前に撮影された三島広小路駅の写真を見せてもらう。ちょうど三島広小路駅の乗り場を出発した単行運転のチンチン電車がカーブ上を走行している写真だった。

  • 今回案内してくださった伊豆箱根鉄道総務課長の芹澤章裕氏

  • 1963(昭和38)年1月、軌道線廃止直前の三島広小路駅前

この写真だとわかりづらいが、かつての軌道線乗り場は現在のタクシー乗り場になっているあたりで、なんとなく当時の面影がいまも残っている。

  • かつて軌道線の乗り場だった三島広小路駅のタクシー乗り場

さらに興味深いことに、芹澤氏によれば明治の終わり頃から大正の初め頃、ほんの短い期間だが三島六反田(現・三島広小路)から三島町(現・三島田町)までの短い距離を結ぶ「市内線」という路線が存在したという。

さまざまな文献を調べてみると、三島六反田~久保町(現・中央町)~三島町を結ぶ市内線(0.8km)が1908(明治41)年8月3日に開通したとの記録が残っている。この路線は当初から駿豆電気鉄道の鉄道事業計画に含まれていた(『静岡鉄道興亡史』森信勝)が、認可の関係で着工時期が遅れたようだ。

  • 三島市街図(昭和26年測図)には軌道線の線路が記載されている。市内線はわずかな期間、三島広小路から東進し、大中島町、小中島町などを経由して三島田町までを結んでいた

じつは、駿豆線の三島広小路駅(開業当初は広小路連絡所)が開設されたのは1914(大正3)年であり、当初はこの場所に駿豆線の駅がなかった。市内線が開通するまで、軌道線から駿豆線に乗り換えるには、徒歩5~6分の距離とはいえ、やや離れた三島町駅まで歩かなければならず、不便だったと思われる。

ところが、市内線の開業からわずか6年後、駿豆線に広小路連絡所が開設される。先述の通り、この時期には駿豆線と軌道線は同じ会社になっており、同一会社の路線が同一区間を並走するのは意味がないので市内線の運転を休止し、1915(大正4)年1月18日限りで廃止された。その後、軌道線は「三島広小路-三島町間は本線(駿豆線)に乗り入れて沼津-三島町間の直通運転が行われ、大東亜戦争中の数年を除き昭24.3.31まで続いてきた」(「鉄道ピクトリアル No.145」禅素英)という。

乗入れを開始した時期は定かでないが、芹澤氏は「当時の駿豆電気鉄道の営業報告書には、六反田において軌道線が軽便鉄道(駿豆線)に大正3年3月31日で乗り入れる認可が下りるとあり、これに従うならば、大正3年から乗入れを開始していた可能性があります」とする。駿豆線の全線電化が完成するのは1919(大正8)年だが、乗入れ区間のみ先行して電化していたのかもしれない。

  • 三島町駅(現・三島田町駅)での駿豆線の蒸気機関車と軌道線の車両

  • 三島田町駅の下りホームにも、軌道線が乗り入れていた当時の痕跡が残っていた

なお、三島町駅において軌道線は駿豆線下りホームの北端から発車していたといい、その頃の写真も残っている。現在の三島田町駅は上りホームと比べて下りホームが長く、ある部分を境にホーム下の石垣の積み方に違いが見られる。これはおそらく、軌道線乗入れ廃止後、軌道線が停車していた部分のホームを手前に拡幅した名残を示すものだろう。