6月30日、バーレーン王国のマナーマで開催されている第42回世界遺産委員会で、日本から推薦された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県・熊本県)が世界遺産に登録された。日本では、2013年から6年連続、22件目の世界遺産誕生となる。また、長崎県と熊本県では2015年に世界遺産登録された「明治日本の産業革命遺産」に引き続き2件目の世界遺産となった。
そこで今回、新しく世界遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の魅力と、世界遺産としての課題について、世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局の主任研究員である宮澤光さんに改めてうかがった。
立ちはだかった3度の壁! 最後はイコモスと共に
――今回の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は世界遺産委員会が始まる前から登録が有力視されていましたが、実際の審議はどうだったのでしょうか。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、5月に諮問機関であるイコモスから「世界遺産にふさわしい」という評価である「登録」勧告が出ていました。その勧告の中で、特に構成資産を減らすような指示や遺産名の変更の提案などがなかったこともあり、世界遺産委員会の本会議では反対意見などが出ることもなく、無事に登録されました。私もWEBで見ていたのですが、イコモスから「登録」勧告が出されている場合、世界遺産委員会でそれが覆されることはまずないので、安心して会議を見ていることができました。
ただ今回の世界遺産登録は、長崎で教会群を世界遺産にしようという運動が立ち上がった時から考えると、長い長い道のりでした。こんなに苦労した世界遺産登録は、日本では他にないと思います。まさに「潜伏キリシタン」の苦しみを髣髴(ほうふつ)とさせるものでした。
――その世界遺産登録までの長い道のりについて、もう一度お聞かせください。
「長崎の教会群を世界遺産にしよう」という市民運動が始まったのは、「長崎の教会群を世界遺産にする会」が設立した2001年のことです。その後、2007年に世界遺産登録を目指す日本の遺産リストである「暫定リスト」に記載され、2012年に国からの推薦候補になるべく推薦書原案を文化庁に提出しますが、同じく推薦書原案を提出していた群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が国から推薦される遺産に選ばれてしまいました。これが一度目の挫折です。
長崎県は推薦書原案を修正し、2013年に再び文化庁に推薦します。この時は文化庁からの推薦を受けることができ、このまま国から推薦されるかと思われたのですが、国内での推薦ルールが変更され、内閣官房からも世界遺産に向けた推薦が可能となり、最終的には政治判断で内閣官房が推薦する「明治日本の産業革命遺産」が国から推薦されました。これが二度目の挫折です。
その後、三度目の正直でようやく2014年に日本からの推薦遺産に選ばれ、ユネスコに推薦書が提出されますが、2015年に行われたイコモスの現地調査を経て2016年1月に出された中間報告書で、「今のままでは世界遺産登録は難しい」という意見が出されてしまいます。それを受け、長崎県は推薦書を取り下げて推薦書の見直しを決断しました。これが三度目の挫折です。
そこから最短で世界遺産登録を目指すべく、イコモスとアドバイザー契約を結び、2017年に日本からの推薦遺産として推薦書がユネスコに提出され、今回ようやく世界遺産登録をなったわけです。こうして話しているだけでも長いですよね。地元の方々も、本当に待ちに待った世界遺産登録だったと思います。
日本独自のキリスト教信仰の姿
――「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」とはどのような遺産なのでしょうか。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、「潜伏キリシタン」という名前が示すように、江戸時代初期にキリスト教信仰が禁止されてから明治時代初期に信仰の自由が認められキリスト教の教会堂が築かれるまでの約250年間、幕府の弾圧を逃れながら密かに信仰を続けた人々(潜伏キリシタン)の「信仰の姿」を証明する遺産です。
長崎県と熊本県に点在する12の資産は、大きく4つの時代に分けられます。ひとつ目は「始まり」。16世紀にキリスト教が日本に伝えられ人々の間に浸透していく一方、豊臣秀吉や徳川幕府によってキリスト教信仰が禁止され、キリシタン達が禁教の下でも信仰を続けることを決意する時代です。この時代を証明するのが天草四郎を総大将とするキリシタン達が幕府軍と戦った島原・天草一揆の舞台「原城跡」です。今は本丸の跡地に建物などは残っていませんが、発掘調査では多くの骨や十字架などが見つかっており、戦いの激しさを垣間見ることができます。
ふたつ目は「形成」。潜伏キリシタン達が神道の信者や仏教徒などを装いながら、密かにキリスト教信仰を続ける方法を作り上げていった時代です。この時代を証明するのは、山や島をキリスト教の聖地として信仰した「平戸の聖地と集落」や、漁村特有の姿でアワビ貝の模様を聖母マリアに見立てて信仰した「天草の崎津集落」、神道の信者や仏教徒を装い信仰を続けた「外海の大野集落」などです。
3つ目は「維持、拡大」。潜伏キリシタンの信仰を続けるために、外海地域からより信仰を隠すことができる五島列島の島々に移住していった時代です。この時代を証明するのは、病人の療養地であった「頭ヶ島の集落」や、神道の聖地であった「野崎島の集落跡」などです。病人の療養地は人があまり訪れない場所であり、神道の聖地にいるのは神道の信者であると見なされるので、潜伏キリシタン達にとって信仰を隠しやすかったと考えられます。
最後が「変容、終わり」。約200年ぶりにキリスト教の信仰を公に告白し世界中を驚かせた「信徒発見」から、教会堂が築かれていく時代です。この時代を証明するのが、この世界遺産のシンボルともいえる国宝の「大浦天主堂」です。浦上地区の潜伏キリシタンたちが大浦天主堂を訪れ信仰を告白した「信徒発見」は、奇跡としてローマ教皇にも伝えられました。その後、潜伏キリシタンたちは、カトリックに復帰する者や仏教や神道を信仰する者、禁教期の信仰を続ける者(かくれキリシタン)などへと分かれていきました。
こうしてみると、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12資産で、日本独自のキリスト教信仰の姿というものがはっきりと見えてくると思います。
――今のお話の中で、せっかく禁教が解かれキリスト教の信仰が許されるようになったのに、なぜ仏教や神道を信仰するように改宗した人がいたのでしょうか。