2017年12月1日、伝説のテレビディレクターが亡くなった。星野淳一郎(享年57)。『夢で逢えたら』や『ダウンタウンのごっつええ感じ』(いずれもフジテレビ)をつくった男である。

"楽しくなければテレビじゃない"を象徴する『THE MANZAI』『笑っていいとも!』『オレたちひょうきん族』(同)を生み、一時代を築いたフジテレビの名物プロデューサー・横澤彪氏の懐刀としても知られているが、本人が表舞台に出るのを嫌っていたらしく、著作はもちろん、インタビューなどもほとんど残されていない。

こうして人物像も功績もベールに包まれているが、それを埋もれさすわけにはいかない。そこで、『夢で逢えたら』などを星野氏とともに手がけ、もっとも彼を間近で見てきた、元フジテレビ・現ワタナベエンターテインメント会長の吉田正樹氏に、その"伝説"の実像を伺った――。

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    星野淳一郎氏(左)と吉田正樹氏=1990年ごろ(吉田氏提供)

葬儀にタモリ・ダウンタウン・ウンナンら

――お通夜やお葬式にはたくさんの方が集まったそうですね。

やはりタモリさんもいらっしゃいましたからね。ダウンタウンやウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子、勝俣州和、今田耕司、東野幸治……みんな来てくれました。ダウンタウンやウンナンは、コンビそれぞれ初日と2日目にうまい具合に1人ずつ分かれて(笑)

――申し合わせたかのように(笑)

まずタモリさんがいらしたから、最前列の葬儀委員長的な席に案内したんです。次にウッチャン(内村光良)が来て、その隣に誘導するとひとつ空けて座る(笑)。勝俣がウッチャンの隣りに座って、今度は東野が列の一番端に座るんですよ。そしたら、今田が来て、東野と勝俣の間の空いた席に。うまいことできてるなあと思ってたら、最後に浜ちゃん(浜田雅功)が入ってきて、「ここしか空いてないんかい!」「やりづらいなあ!」って言いながら、タモリさんとウッチャンの間に座った(笑)

――最初から決められてたかのような席順!

葬式では『夢で逢えたら』でやったメンバーの歌うライブの曲を流したんです。「ムラサン音頭」とか「Forever Friends」。実はこれは「中沢恵二」というペンネームで星野が作詞した曲なんですよ。僕のコーナーで使った曲なんだけど、「書いてきたから」って、頼んでもないのに持ってきた(笑)。ケンカしたくないから「いいじゃん!」って採用したんですけど、それを流してたんです。だから、出棺の時もそのド下手な歌声が聴こえてくるわけですよ。これでその場にいたみんな耐えられなくて、笑ってるんだか、泣いているんだか分からない。悲しい曲をかけるんじゃなくてホントにおバカだねって、笑って送りました。浜ちゃんも棺を覗いて「おお、ごっつい顔してますわ」とか浜ちゃんらしく言ったり、悲しい中でもみんな精いっぱい楽しんで、戦友を送ったわけです。

実感は"スーパーAD"

――慕われていたのが伝わってきます。星野さんはどんな方だったんですか?

一言で言えば、横澤彪さんの本当の弟子……いや、"分身"ですね。

――分身?

たとえば、『笑っていいとも!』という番組を誰が作ったのか? 横澤彪さんなのか、各曜日ディレクターなのか?――っていうと、その時代を一緒に過ごした人間は分かるんですが、それは、星野淳一郎だと言ってもいい。タモリさんが葬儀にいらしたというのは、そういうことなんです。お葬式でもそういう話になった。あの頃のテレビは"現場"、つまり最前線が決めてるから面白かったんだって。

――どういうことですか?

では、星野くんの歴史をちょっと振り返ってみますね。彼は高校が早稲田実業でブラスバンド部だったんです。その先輩に、後に「ひょうきんディレクターズ」(※)になる永峰明さんがいた。永峰さんは我々より4~5歳上。だから星野が15歳の頃に10代でフジテレビに入ってた。それで接点があってテレビを志したと聞いています。そのまま高校生の17歳でバイトでADになったんです。

(※)…『オレたちひょうきん族』のディレクターだった永峰氏、佐藤義和氏、荻野繁氏、三宅恵介氏、山縣慎司氏が結成したユニット。「ひょうきんパラダイス」でレコードデビューも果たす。

――『THE MANZAI』の頃ですか?

そのちょっと前ですね。だから、横澤班の創成期にいた人なんです。ここで重要なのは、彼があくまでもADだったってことなんですね。ネットとかを見ても星野は「素晴らしい演出家だった」って書かれているけど、僕らの実感は違う。彼は"スーパーAD"なんです。だから、いかに80年代のテレビは現場が回していたか、現場が面白かったかということなんです。だってADの星野が全部決めてたんだから! 若干23~24歳のAD、といってもキャリアは6~7年あるわけですけど、それくらい力があったんです。

タモリが信頼を寄せた"アルタの主"

――具体的にはどんな役割をしていたのでしょうか?

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タモリ

『いいとも』では、1カメからハンディの5カメまであるんですけど、当然1カメが一番偉いわけで、「テレフォンショッキング」は、その1カメからの目線なんです。それと、アルタの控室、つまりプロデューサーの横澤さんたちがいる本部席が扉1枚挟んである。ここのモニター横に仁王立ちしていたのが星野淳一郎なんです。毎日、ここから離れない。3カメはタモリさんに一番近い位置で何かあったら走っていけるから、チーフADが脇に立つ。けど、1カメ横は常にタモリさんの目線に入る位置。実質的に全体を指揮するポジションだったんです。「タモリさんの目線からオレは外れられないんだ」と。

――すごい!

要は"アルタの主"みたいな人。「アルタはオレが仕切ってるんだ。生放送が始まってしまえば、ディレクターよりもすべての権限はオレにある。タモリさん、オレを見ろ」という感じでしたね。"現場のボス"みたいな。身長は190cmあって、顔はまるでロシア人みたい。タモリさんも全幅の信頼を寄せていました。チーフADとして実務作業の一つ一つをやっていたのが星野淳一郎。ADの人事とか、誰をどこにつけるのかまで全部取り仕切っていた。若いディレクターもADである彼の言うことを聞かなきゃいけないくらい(笑)。ギャラとかも彼が調べて全部交渉してましたから。

――ええ!

だから星野や我々が去った後の『いいとも』は、『いいとも2』と呼んでもいいくらい別の番組なんです。80年代中盤までの『いいとも』は特殊な番組でしたね。本来のADは、上からの指示をそのまま伝えるだけですけど、この頃は全部最前線の現場が作ってた。星野は、『笑っていいとも!』という生放送のドラマ性、台本には書けないこともあるんだっていうことを本質的に知っていました。番組の最初に起こったことを同時間に処理して、その日の結末にちゃんと回収する。あるいは前日に起こった出来事をどこで生かすか。「テレフォンショッキング」のお友達紹介で間違い電話をしたら、その間違えた人を呼んじゃうっていうのがあったじゃないですか。その人を年末の『特大号』にまで呼んじゃう。起こったことをダイナミックに回収するという時代のチャンピオンですね。そういう能力に関しては、「ひょうきんディレクターズ」と同等だったんじゃないかと思います。