「もうたくさんだ」「いまのこの国に本当の意味で語るに値する現実は一つも存在しない」。批評家・宇野常寛氏は、5冊目となる最新の単著『母性のディストピア』(集英社)の序章で痛切にそう述べている。日本テレビ系の朝の情報番組『スッキリ』にもコメンテーターとして出演し、実際の社会問題を前に激論を交わした経験をもってなお「この国の現実に想像力の必要な仕事は一つもない」と。

  • 宇野常寛

    宇野常寛 撮影:Amiri Kawabe(WATAROCK)

宇野氏は2008年、主に2000年代に登場した漫画、アニメ、ゲーム、テレビドラマなどで表出した"新たな物語"を分析した『ゼロ年代の想像力』(早川書房)で商業誌デビュー。同著でジャン=フランソワ・リオタールの指摘した(国家やイデオロギーに代表されるような)「大きな物語」が瓦解した後、「小さな物語」が乱立するようなポストモダン状況が進行した国として日本を捉えていた。2011年には小説家・村上春樹や『仮面ライダー』シリーズなどの動きを見ながら、東日本大震災以降の日本文化を批評し現代を「拡張現実の時代」と定義した。

その宇野氏が『母性のディストピア』では、改めて虚構の物語の持つ可能性について分析。主な評論の対象となったのは宮崎駿氏、富野由悠季氏、押井守氏らアニメ映画監督の作品群だが、『君の名は。』や『聲の形』『シン・ゴジラ』『ポケモンGO』といった2016年に公開(発表)された映画、ゲームについても大きく取り上げられている。また宇野氏は同著で「『政治』と『文学』から『市場』と『ゲーム』へ」という新たなテーゼを設定。一見すると難しそうだが、ここでの政治とはパブリック(社会など大きな目線)、文学とはプライベート(個人など小さな目線)の領域と捉えれば分かりやすいかと思われる。その上で"語るべき現実を失った日本"を前に、彼はどのように種々の作品群を観て、どういった考えに至ったのか、より詳しく聞いた。

戦後日本の精神史を貫く「肥大した母性と矮小な父性の結託構造」

――本書のタイトルにもなっている「母性のディストピア」という言葉が、初めて宇野さんの評論に出てきたのは、いつ頃でしょうか。

『ゼロ年代の想像力』の後半、高橋留美子さんとその間接的な影響下にある作品群について論じた第十章だと思います。だから本当、デビュー作の頃から温めていたモチーフではあるんですよ。

――『ゼロ年代の想像力』の章から今回こうして単行本になった過程で、どのような変化がありましたか。

『ゼロ年代の想像力』と比べると今回は、扱っている年代のスパンも5倍以上になっていまして……平たく言うと、より大きな問題意識に接続したということですね。父になれないことで自分を断念しているのではなく、それを許容してくれる女性のスカートの中で擬似的に父になっているに過ぎないーーこれは『ゼロ年代の想像力』、から『リトル・ピープルの時代』の村上春樹論に発展させた論点なのです。これは実は特定の作家やサブカルチャーの問題というよりは戦後日本の精神史そのものを貫くとても大きな問題ではないかと僕は考えているんです。本書では「肥大した母性と矮小な父性との結託構造」と表現していますよね。

宮崎駿監督作品に見られる"飛ぶ"表象の裏側

――その「肥大した母性、矮小な父性」というのを今一度、分かりやすく伝えていただけますか。

宇野常寛

それに関しては、宮崎監督について論じている第3部が一番分かりやすいのではないでしょうか。宮崎監督は、『天空の城ラピュタ』(1986年)や『風立ちぬ』(2013年)を観ればよく分かるように、"飛ぶ"ということを男性的なロマンティシズムの象徴としてずっと描いてきた作家なんです。ただ、そういった自己完結的なロマンティシズムを承認してくれる母的な存在があってこそ、彼らは飛べるんですね。例えばジーナに見守られていて飛べるポルコ、ソフィーに見守られていて飛べるハウル。こういった表現を繰り返しています。

アメリカの影の下、戦後日本の男性は、近代的な市民としての「父」というものに対して憧れを持っているものの、実際にはそれになることができないという、相当屈折した自意識を持っている訳ですね。

端的に言えば矮小な父性というのはネトウヨ、というか左右のイデオロギー回帰ですね。そして肥大した母性というのは戦後民主主義ですね。これは冷戦終結とグローバル化で解体されるはずだったのだけど、実際はそうはならず、インターネットの影響でよりタチの悪いものに変化している。

――その「父」になりたいというのは、物事に対して主観的に判断や決定をし、それと同時に責任をも引き受けるような存在でありたいという理解で大丈夫でしょうか。

それが社会的にどんな価値を持つかは度外視していて、「私にとってあなたは必要ですよ」という承認や無条件の肯定をくれる母的なものの中で、ですね。その母からの肯定によって社会的な承認を代替していくような、自己完結的なロマンティシズムがある。それが「矮小な父性と肥大した母性の結託」です。なので、矮小な父性は母的な存在のスカートの中でさも自分が父になったかのような錯覚を享受して自己完結していき、母の方は自分を満たすことができる箱庭を作り上げて閉鎖的に安定していく。それが戦後核家族的な母性であり、吉本隆明的な対幻想に支えられた「大衆の現像」であり、テレビポピュリズム的な「下からの全体主義」の温床であり、そして高橋留美子的な消費社会の終わりなき日常に戦略的に自閉する態度なのですが、平和で安定したその世界――ニアリーイコール戦後日本社会のそのもの――の背景には実は強力な排除の論理によって支えられていて、無数の人柱を必要としているということを告発したのが押井監督だったということなんですよ。それが端的に表れているのが『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)ですね。

――一方で先ほど、宮崎監督作品の"飛ぶ"表象については「戦後日本の男性性に見られる屈折した自意識」と仰っていましたよね。

本書では、宮崎監督は戦後日本の自意識そのものだという風に書いています。なので、宮崎監督の陥穽は、そのまま戦後日本の精神史の陥穽であって、だからこそ、と言える強い大衆性だと思うんですよ。宮崎監督についてしっかり論じておくことが、やはり戦後の精神史の総括という側面においては必要だったと思っています。

庵野秀明監督は「『政治と文学』の断絶に最も敏感」

――ところで本書では、3人の監督以外のアニメ作品も取り上げられていて、2016年の映画やゲームが一つのキータームになっていましたよね。その内の1作『君の名は。』の分析に、なるほどと思わせられました。同作は「政治と文学」の「文学」だけということで、落下する彗星が震災のメタファーで、しかしそれは「君と僕の物語」の味付けとしてしか機能していない。これは震災を遠くの場所で終わった悲劇として忘れて、普通の日常に戻りたがっている人たちの欲求をついているのでは、という。

実際そうですよね。その辺りは映画プロデューサー・川村元気氏の天才的な嗅覚なんじゃないですか。やっぱり日本人が無意識に抱えている震災のイメージや東北への後ろめたさを割り切れないものとしてじゃなく、割り切れるものに昇華してしまいたい……そういった願望に上手くアプローチしていますよね。本当、悪い人だなぁと思います。褒め言葉として、ですよ。本当に、皮肉とかじゃなくて。

――他方、私は『シン・ゴジラ』も鑑賞したのですが、非常に難しくて、どこに焦点を置いて観れば良いのか、とても混乱してしまったんです。

宇野常寛

物凄くハイブリッドで複雑な映画ですよね。例えばですが、あの作品は結構簡単に政権擁護的にも政権批判的にも観られると思うんですよ。もちろん、そんな単純ではなくて、映画を俯瞰して観ると、根底に描かれているものはある種の露悪性だと思うんですよね。

――露悪性ですか。

うん、そうだと思いますよ。全て計算して作った映画というよりは、庵野秀明監督はああいったようにしか作れなかったと思うんですよね。『新世紀エヴァンゲリオン』(『エヴァ』/1995~1996年)が世界の問題を自意識の問題に矮小化する……セカイ系と呼ばれるものの原型となったように、『シン・ゴジラ』は逆に「政治と文学」の「文学」の方は大きく後退してしまっていて、「政治」の話しかなくなっている。言ってしまえば、本当に『エヴァ』の裏返しなんですよね。でも、あのような形でしか今の日本――東日本大震災以降の状況にアプローチできないというのは、庵野監督が体現する、日本の物語的な想像力のある種の限界をよく表してしまっていると僕は思います。

――なるほど。

まだ『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)の頃の押井監督までは、かろうじてアイロニックな形で接続されていた「政治と文学」が、『エヴァ』以降……庵野監督以降、ほぼ断絶してしまっている。そして彼は形を変えず、断絶を描くことしか今の所できていない。ただ断絶に最も敏感な作家であるがゆえに、僕は評価するという立場です。

現実を拡張する虚構としての聖地巡礼、『ポケモンGO』

――本書では2016年のアニメ映画として『聲の形』も論じられていました。物語やキャラクター構成を、京都アニメーションが得意とするところの「終わらない日常」のイメージを指摘しながら分析されていて、同時に少し聖地巡礼についても触れられていましたよね。一方、『ポケモンGO』について論じた部分ではゲームを通じた「拡張現実の時代」の現れの一つと分析されています。聖地巡礼も「拡張現実の時代」の一系統と言えそうですね。

もちろんです。『リトル・ピープルの時代』の第3章で、僕は中沢新一氏を引用しながら初代『ポケットモンスター』シリーズ(1996年)と聖地巡礼を並べて論じていて、今の我々の「拡張現実の時代」の虚構感が、こういった現象で表れているという議論をしているんですよね。当時は「なんだこれ!」と誰からも理解されなかったんですけど、刊行から6年経って、今読むと物凄い説得力があると思うんですよ(笑)。自分で言うのもなんですけど。「仮想現実から拡張現実へ」というテーゼが、何も情報技術のトレンドの話だけでなく、我々の虚構感も変化させているということです。つまり革命の代替物としての架空戦記のようなもう一つの世界を要求するのではなく、実際に我々が日常生活を営んでいるこの空間を拡張することの方が虚構の機能として求められ始めている。その具体的な欲望の表れとして聖地巡礼があり、そして『ポケモンGO』があるという風に僕は考えています。

――なるほど。ただ私は『ポケモンGO』をダウンロードはしましたが、Googleのアカウントを持っていないということで断念してしまいました。Googleアカウントを持っているのが当たり前という情報環境に戸惑ってしまったのかも知れません。

もちろん一極集中し過ぎない方が良いに決まっています。ただそれよりかは、Googleが象徴するカリフォルニアン・イデオロギー*が持っているものに対して、我々がどう批判的にアプローチしていくのかを考えることの方が大事だと思うんですよ。それについて僕は文化左翼的な抵抗運動などとは少し違うと思っていて、かつてのモータリゼーションに対しての日本車的なものが良いと捉えています。アメリカ発の文化というものは全面的に受け入れた上で、批判的な2次創作として日本車というものを発明することで打ち返していったわけですよね。やっぱり我々も同じようなことをGoogle的なものに対して行っていくべきだと思うんですよ。

*カリフォルニアン・イデオロギー:サイバースペースとグローバル資本主義とを結びつけ、マーケット(市場)から世の中を変えようとする一種のユートピア思想。もともとアメリカ大陸の西の果てであるカリフォルニアはフロンティアを求めて開拓者たちが目指した地であり、60年代にはヒッピーたちによる文化運動サマー・オブ・ラブが起こるなど反権力的な面が強い場所でもある。カリフォルニアン・イデオロギーを代表する人物として宇野氏は本書でAppleの創業者の1人スティーブ・ジョブズを挙げている。