『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(田中俊之 著/KADOKAWA/税別1,000円)

現代において“普通”はもはや有害な思考停止ワード?

2002年に放映された傑作ドラマ『木更津キャッツアイ』で、余命わずかと宣告された主人公・ぶっさんは、"普通"と書かれた野球ボールを心のお守りにしていた。

何か特別なことを成し遂げようとしたり、ここではない非日常を渇望したりしなくても、私たちの生きる日常はすでに"普通に"充足と豊穣に満ちあふれているのだ、という素晴らしいメッセージが、そこには込められていた。

しかし今、世間の男性を苦しめているのは、むしろその"普通"にすらなれないコンプレックスではないだろうか。普通に会社に勤め、普通に恋愛・結婚をして、普通に嫁と子どもを食わせて定年まで働くことは、もはや贅沢な特権になりつつある。もちろん、正社員だけが働き方ではないし、恋愛・結婚に興味がない人だっているのに、彼らは肩身の狭い思いや、不利な立場を強いられてしまう。

その結果、"自分は普通である"というプライドを満たせなくなった男性の中には、必死で"自分より普通でない"人たちを見つけては、見下したり差別したりといった有害な言動をとる者も出てきてしまった。

そんな男性たちに、「まずは落ち着いてください」と呼びかけ、「立ち止まる勇気」を訴える本が登場した。昨年、『AERA』の「男がつらい」特集で一躍注目を集めた男性学の旗手・田中俊之氏による『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(KADOKAWA)である。

本書で繰り返し述べられているのは、"普通"にとらわれ、しがみつくことの危うさと弊害だ。その"普通"の最たる例が、旧来の「男らしさ」とされてきた規範だろう。

男は競争に打ち勝って何事かを達成するのが"普通"、男は少々乱暴で不真面目で大雑把なくらいが"普通"、男は論理的で感情に流されないのが"普通"、男は正社員としてフルタイムで40年間勤め上げるのが“普通”、男は女をリードして口説き落とすのが"普通"、などなど……。

これらの「男らしさ」は、もはや古臭い時代遅れの規範であり、男性はそれを手放さない限り、多様に生きる人々を踏みつけ、自分自身の首をも絞めているのだということを、著者はひとつひとつ丁寧に諭していく。

この本はまさに、男性のための新しい道徳の教科書、人生の副読本として全男子に必読を課したい、男性視点でのジェンダー入門書と言えるだろう。

男だって弱音を吐いて泣いてもいい、男は女性を性的魅力だけで評価しすぎている、男が若い女好きなのは"生物学的な"本能ではない、不妊は女性だけでなく男性が原因の場合もある、"草食系男子"はもともと揶揄ではなく褒め言葉だった……など、本書が男性読者に言い聞かせる内容は、聞く人が聞けば"今さら"であり、「いちからか? いちからせつめいしないとだめか?」と言いたくなることも多い。

しかし、男性の"思考停止する力"をなめてはいけない。著者は、都心部の満員電車の過密度が奴隷船並みであるにもかかわらず、アンケート調査で「通勤時間が苦痛だ」と答えた人が35%しかいなかったことを例に挙げ、どんなに理不尽なルールも、当たり前で仕方のないこととして受け入れなければ生きていけない、と思わされている男性の抑圧を指摘する。この社会は、男性の感情を鈍感にさせておかないと機能しないようにできているのだ。

「男」ではない「自分」の感情に素直になろう

この原稿を書いている私自身も、「男らしくない」自分に引け目と負い目を感じながら、劣等感と焦燥感と孤立感の三角食べで卑屈さをこじらせ、ちんけなプライドを守る逃げ口上ばかり上手になって、ここまで生き延びてしまった自覚がある。

小さい頃からひとり遊びが好きでスポーツが苦手だったせいで、同年代のやんちゃな男子の輪に入って競い合ったり自己主張したりすることができない子どもだった。その代わり、先生に言われた通りにしていれば評価される「優等生」キャラになることで自尊心を守っていた。

思春期には、盛り上がるとすぐ脱いで裸を誇示するような、下品で粗野な体育会系のノリが心底嫌いだったが、その嫌悪感の正体が自分の貧相なエヴァンゲリオン体型へのコンプレックスと、たくましい男子が女子からモテていたというルサンチマンだったことは間違いない。

恥ずかしくていまだに人に言えないことも多い。数年前、激務に追われて教習所に行けなかったとき以来、車の免許を失効して持っていないのだが、実を言うともともと車の運転が苦手で、失効してホッとしたのも本音だった。「男なら、女の子を乗せてドライブくらいできなければ」と無理して免許を取ったが、本当は車に人を乗せて走るのが怖くてプレッシャーだったのだ。

さらには、20代後半まで交際経験がなく童貞だったことを、親しい友人にすら嘘をついてごまかしていたし、風俗に一度も行ったことがないのがなんか恥ずかしくて、聞かれてもあいまいに行ったことがあるようなフリをしていたことも、今ここに初めて告白したい。

そもそも、フリーランスのライターという不安定な職を選んだのも、一般的な企業社会の勝負や競争からわざと降りることで、「"普通"の収入や地位を得られない自分」を見ないようにしていたのかもしれない。

"普通"になれない自分、男らしくない自分と向き合わずに、傷付かないで済むためなら、なんだってする。男……いや、主語を大きくするのはよくないから正確に言おう、「私」のアイデンティティやプライドは、そういう歪んだグラグラな自尊心の上に成り立ってしまっている。

土台が腐っているから建て直せと言われても、すでに30年建て増しに建て増しを重ねたそれなりに立派な家がそびえてしまっているから、やっかいでタチが悪いのだ。

だからといって、もちろん「男のほうがつらい」などと思ってはいけない。男女に関して、どちらがつらい、どちらが悪いという二元論は、泥沼の水掛け論にしかならないと本書も警告している。

大切なのは、「男だから」「女だから」という思考停止に逃げ込まず、「自分」はどう感じるのかという感情と向き合い、外から「そう思わされている」だけの規範に縛られていないか、常に内省することだ。

「多様性を認める」とは、全ての人を愛することではなく、価値観の違う人にも敬意を持って、適切に距離を取ることだと著者は説く。結局、それは“普通”と違う他人を許すと同時に、"普通"なれない自分自身を許し、受け入れ、愛することにもつながるだろう。

ぶっさんと違い、2015年を死なずに生き延びてしまった私たちは、心の野球ボールの文字を"普通"ではなく、一刻も早く"多様"と書き換えるべきなのだ。

<著者プロフィール>
福田フクスケ
編集者・フリーライター。『GetNavi』(学研)でテレビ評論の連載を持つかたわら、『週刊SPA!』(扶桑社)の記事ライター、松尾スズキ著『現代、野蛮人入門』(角川SSC新書)の編集など、地に足の着かない活動をあたふたと展開。福田フクスケのnoteにて、ドラマレビューや、恋愛・ジェンダーについてのコラムを更新中です。