――時代劇は『雨あがる』以来になると思いますが、監督の中では時代劇はどういった位置付けになるのでしょうか?

小泉監督「現代劇でも時代劇でも、時代が違うというだけで、それほど大きな違いはないと思います。ただ、時代が変われば、その時代に生きた人に会えるという楽しさがある。たとえば、『明日への遺言』の岡田中将だと戦後ですし、『蜩ノ記』だと200年ほど前、文化・文政の時代を生きた人々、そういった人に対する想像力が必要になってきます。お家であるとか、切腹であるとか……家族のありようも現代とはまったく違いますし、理不尽なこともあるでしょう。そんな中で、どのように生きてきたのか? その人に映画を通して出会える喜びはすごく大きい」

――映画を通して、時代を知るわけですね

小泉監督「その時代を想像しなければ、結局わからないと思うんですよ。今の時代の感覚だと、秋谷という人も庄三郎という人もよく理解できない。しかし、その時代に歩みよることによって、その時代に生きた人を知る。これはとても大事なことだと思うし、"歴史を知る"というのは、まさにこういうことだと思っています。200年前にどういう事件が起きた、という単なる事実だけでなく、その時代の中で人はどのように生きていたのか? それを知ることこそが歴史を知ることだと僕は思っていますし、それを描くことこそが映画の持つ特性であり、すばらしいところだと思います」

――映画によって時代を超えることができる

小泉監督「たとえば、黒澤監督の『七人の侍』だと戦国時代が描かれていて、百姓を侍が守るわけですが、今だと考えられない状況ですよね。でも、あの時代に生きた人たちだからこそ、僕たちに訴えかけるものがある。そして、そういう人々を身近に感じることができる。それが非常に重要なことだと思っていますし、この作品を観て、200年前に生きた秋谷という人を身近に感じてもらえたらうれしい。それこそが歴史の強さだし、映画を撮る楽しみだと思います。でも、これをスタッフ全員が同じように感じてくれないと上手くいかない。衣装にしても、メイクにしても、小道具にしても、それぞれが時代をキチンと掴まえていないといけないわけです」

――チーム作りも重要になるわけですね

小泉監督「僕のチームには、黒澤さんの時代からの助監督もいるし、衣装もいるので、そういったことを自然と身につけてくれている。スタッフは僕以上にこだわります。『蜩ノ記』に出てくる日記ひとつとっても、その時代の歴史をちゃんと調べて、映らないところまでキチンと書き込んでくれているんですよ。俳優さんがどこを開いても大丈夫なように。茶碗だって、その時代にあってもおかしくないものを揃えてくれる。ただ、これは努力すればできることなんです。なかなか完全とまではいかないけれど、努力すればできる。そして、僕のスタッフはそういった努力を少しも惜しまない。それが非常に大きな力になっていると思っています」

――それは決して簡単なことではないと思います

小泉監督「衣装だけでもダメだし、メイクだけでもダメ。小道具も美術もそうです。照明だって、その時代にあった照明じゃないといけない。ロウソクならロウソクの明かりをちゃんと作ってもらわないといけないわけですよ。すべてをキチンとやることが映画を作る上ではとても重要で、その中において、いかに俳優さんが自然に演技できるかが大切になってくると思います」

――ひとつでも欠けるとダメなわけですね

小泉監督「ひとつが欠けているために、そこから気持ちが抜けてしまうことがあるかもしれません。だから撮影のときは、みんな集中して、芝居に入っていってほしい。誰か一人でもそっぽを向いていたらダメ。全員がひとつの物を作るということに集中してほしいんですよ」