ロンドンには今も1万匹を超えるキツネがすみついているそうだが、東京も昔はキツネやタヌキがいたのだろうな、と想像させてくれるのが、港区の麻布狸穴町という地名である。札幌にも狸小路という有名な商店街があり、こちらもきっと人をたぶらかすタヌキが出没したのがその名の由来思えるが、果たして真相やいかに。

麻布狸穴町に沿って走る狸穴坂。坂名の由来も記されている

「狸」と書いて読み方は「まみ」「むじな」

港区の麻布狸穴町。麻布を「あざぶ」と読むのは難しくないかもしれないが、狸穴を「まみあな」と正しく読める人は、東京に暮らす人は別として、時代小説の熱心な読み手に限られるのではないだろうか。

時代小説のファンなら、なぜ「まみあな」と正しく読めるのか? それは、諸田玲子さんの人気時代小説『狸穴あいあい坂』シリーズ(集英社)があるからである。江戸時代は飯倉狸穴町と呼ばれていた現在の麻布狸穴町界隈を舞台とした人情物語で、シリーズ第1作の最初の章「ムジナのしっぽ」では、麻布や狸穴町の地名の由来にも筆が及んでいる。

それによると、麻布はその昔「麻生」といって、麻や浅茅が生い茂る草原だったという。そこには狐狸もムジナも我がもの顔で棲みついていたが、やがて中小の大名屋敷や武家屋敷が建ち並び、その合間に町人と寺社の町が点在する頃になると、ムジナは安住できなくなったそうだ。また、狸はもう存在せず、いるとすればせいぜい猯(まみ)。「猯」とはアナホリともイタチとも呼ばれ、地面に穴を掘って棲みつき、夜間にうろつく輩だという。

狸、ムジナ、猯、アナホリ、イタチ……、なにやらややこしいが、『コンサイス地名事典』(三省堂)や『東京の地名』(平凡社)などを引いて整理すると、飯倉や麻布界隈に生息していたのは「猯」と呼ばれたアナグマ。ムジナとも俗称され、狸にも似ていることから「猯=まみ」の音に「狸」の字が当てられ狸穴町の地名になった、ということのようだ。

麻布狸穴町界隈は都心とは思えない閑静な住宅街

こうした「狸」という文字をめぐるややこしい動物事情は麻布狸穴町に限ったことではなく、日本全国の「狸」の文字の入った地名の読みにも共通する。

例えば「狸穴」という地名は、宮城県白石市、福島県石川郡、茨城県稲敷市、静岡県浜松市などにも存在するが、その読み方となると、宮城県と茨城県の狸穴は「まみあな」と読み、福島県の狸穴は「むじなあな」、静岡県の狸穴は「たぬきあな」だ。複雑怪奇で、まるで狸に化かされたかのようである。

ちなみに、ロシア大使館のある港区麻布台も、戦後に行われた町名変更の以前は麻布狸穴町だった。このため米ソ冷戦の時代には「狸穴」といえばソ連大使館を指す隠語であり、スパイの登場するサスペンス小説などでお馴染みの地名であった。

「狸穴」と隠語で呼ばれたソ連大使館も今はロシア大使館に

男性に財布の底を叩かせた札幌・狸小路の狸とは?

さて、そんな「狸」の文字の入った有名どころの地名として忘れてはならないのが、札幌市の狸小路だ。地名というか、正確には商店街の名称で一帯の通称でもあるが、札幌最古の商店街であり薄野やラーメン横丁にも近いことから、札幌観光の定番コースにも入っている。実際に行ったことがある人も多いだろう。

地元の人や観光客でにぎわう札幌の狸小路商店街

この狸小路も麻布狸穴町と同様に、狸、ムジナの類いが出没したことからその名が付けられたのだろうと思っていたら、実はそうではなかった。狸よりムジナより猯より、もっともっと妖しい動物が出没していたのが地名の由来という。

狸より、ムジナより、猯より、もっと妖しい動物って、いったいどんな生き物? 札幌狸小路商店街の公式サイトを見てみると、狸小路の発祥を語る際にしばしば引用されるという、明治24年(1891)発行の『札幌繁盛記』の一説が紹介されている。

それによると、この地域に昔出没した、言葉巧みに男を誘ったある種の職業婦人を狸になぞらえたのが、狸小路の名前の由来とのこと。なかなか粋な表現である。

狸小路商店街の守り神、本陣狸大明神

●参考文献
『狸穴あいあい坂』(諸田玲子著・集英社)
『コンサイス日本地名事典』(谷岡武雄監修・三省堂)
『東京都の地名』(平凡社)