上京する"手段"として東京の一流大学に進学、東京の企業に就職

九州の某県出身のSは幼いころから成績優秀で、県で一番の進学校から東京の一流大学に進学した男だ。なんでも彼の地元では、成績が優秀であれば国立の九州大学に進学するほうが定番らしいのだが、Sはどうしても地元を出たいという理由から上京できる大学を選んだという。Sにとって大学進学とは、勉学に励むための手段というより、上京するための手段であった。簡単に言うと、田舎育ちのSは都会に憧れていたのだ。

そして、その憧れは実際に東京生活が始まって以降もまったくぶれなかった。広大な自然に囲まれてはいるものの、オフィス街や歓楽街はおろか、電車も少ない地元より、24時間眠らない都市である東京の猥雑さ、お洒落さ、そして交通の便の良さ、すなわち人工の輝きに魅せられた。かくしてSにとって、大学卒業後も故郷に帰る選択肢はまったくなく、迷わず東京の企業に就職した。せっかく地道に勉強を頑張って、東京の大学を出たのだ。それなら東京でバリバリ仕事をしないと、これまでの努力が無駄になってしまう。向上心旺盛なSにとっては、経済的に衰退していく一方の地元になんの魅力も感じなかった。

東京を根城にして、東京を終の住処にすると固く決意

その後、Sは27歳のときに結婚し、ほどなくして二人の男児を授かった。妻となった女性は、これまたSの希望通り、東京出身・東京育ちの都会っ子。都会という言葉に目がない、根っからの田舎者を自認しているSは、彼女と初めて出会ったとき、彼女が東京出身と聞いただけで、三割増しに美しく見えたという。わかりやすい男である。

したがって、結婚して5年の月日が流れたとき、東京の郊外に一軒家を購入することにも一切ためらいはなかった。そのころのSの頭の中には、九州の地元で二人暮らしをしている高齢の両親のことや、いわゆる望郷の念などを気にする考えはまったくなく、東京を根城にして、東京を終の住処(すみか)にするという固い決意があったのだ。

幸いなことに、奥様のご両親がS夫妻の近くに住んでいるため、バックアップ体制も万全だ。さらに二人の子供の将来を考えると、経済的には少々大変だが、それでも国際的な大都会である東京の学校に通わせることで、より広い視野で勉強に励むことができるだろう。愛する我が子には、自分と違って根っからの都会人になってもらいたい。

帰省の際、体力的にも精神的にも弱ってきた高齢の両親の現状を目の当たり

ところが、そんなSに心境の変化が訪れたのは35歳の正月だ。久しぶりに田舎に帰省したSは、明らかに体力的にも精神的にも弱ってきた高齢の両親の現状を目の当たりにした。昔は頑固で気丈な働き虫だった父も、そろそろ仕事からの引退を考えているらしく、どこか企業戦士としての鎧を脱いだかのような弱々しさを全身から発していた。

丸くなったなあ……。Sは父に対して、一抹の寂しさと不安を感じた。思えば、父ももうすぐ70歳だ。この先、本当に仕事を引退したら、母との2人暮らしはいったいどうなるのだろう。若いころから仕事一筋で生きてきた真面目な父のことだから、退職後に没頭できる趣味もないはずだ。母は母で、典型的な無趣味の専業主婦として生きてきた。退職した父が一日中家にいるようになったら、二人そろって一気に老け込むのではないか。

おまけにSは一人っ子である。つまり、自分がこの両親の面倒を放棄したら、他に頼れる人などいない。確かに金さえあれば、仕送りくらいはできる。本当に弱ってきたら、施設にお願いすることもできるだろう。しかし、本当にそれでいいのか。幼いころから自分のことを手塩にかけて育ててくれた両親の老後を、金だけで解決していいのか。

故郷への思いに駆られるように--だが、「なにをいまさら」と反論する妻

そう思うと、Sはいてもたってもいられなくなった。自分が幼かったころの両親の記憶が走馬灯のように蘇り、その1コマ1コマに若いころの両親の愛情深い笑顔が鮮明に映し出される。お父さん、お母さん、あなたたちが幼い自分の手を引き、背中におぶってくれたように、これからは自分が年老いたあなたたちの手を引いてやりたい。

かくして、ここにきてSは故郷への思いに駆られるようになった。これまでは故郷を田舎だという理由だけで拒絶し、東京に一軒家まで構えたが、やはり両親を思うと故郷に戻って生活を仕切り直すことも一案だ。逆に両親を東京に呼ぶという考えもあるが、祖父の代から百年以上も故郷に住み続けてきた一族の一員である父の気持ちを思うと、それはそれで薄情な処置だろう。跡継ぎが自分しかいないS家にとって、東京は自分一人のわがままによって、たかだか10数年住んでいるに過ぎない。それを終の住み処と考えるのもいかがなものか。

しかし、そんなSに対して「なにをいまさら」と反論するのは妻だ。東京育ちの妻にしてみれば、Sが東京を根城にするつもりで一軒家を購入したからこそ、安心して子育てに励むことができる。しかも、現在小学生の二人の子供はどちらも成績優秀で、都内の難関中学校の受験も視野に入れており、それを考えるとますます九州に引っ越すわけにはいかない。そもそも東京在住だからこそ、魅力的な学校の選択肢も多いのだ。

そう反論されると、Sは言葉に困ってしまう。なにしろ、東京にこだわってきたのは自分なのだ。自分が都会に執着しすぎたのが悪いのだ。それを今さら撤回しても、妻にしてみれば梯子を外された感覚になって当然だろう。しかし、だからといって……。

「歳をとったら、わかることもある」

若いころに年長者に諭された言葉の意味が、今になって胸に響くSであった。

<作者プロフィール>
山田隆道(やまだ たかみち)
小説家・エッセイスト。早稲田大学卒業。これまでの主な作品は「虎がにじんだ夕暮れ」「神童チェリー」「雑草女に敵なし!」「Simple Heart」など。中でも「雑草女に敵なし!」は漫画家・朝基まさしによってコミカライズもされた。また、作家活動以外では大のプロ野球ファン(特に阪神)としても知られており、「粘着! プロ野球むしかえしニュース」「阪神タイガース暗黒のダメ虎史」「野球バカは実はクレバー」などの野球関連本も執筆するほか、各種スポーツ番組のコメンテーターも務めている。

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