大阪の難読地名の代表例「放出(はなてん)」

「放出」と書いて“はなてん”。放出とは大阪市鶴見区にある地名で、JRにも放出駅というのがある。こうした地名は難読であることで有名なので、今や県外の人でも地名だけは聞いたことがあるという人も少なくないだろう。そう。大阪には難読地名が実に多いのだ。

ちなみに、放出の地名の由来は主に2説ある。ひとつは古代から中世にかけて、この辺りが河口湖からの湖水が大和川や寝屋川の河流と合流して、旧淀川(現在の大川)に注ぐ放出口になっていたことに由来するという説。

もうひとつは、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を盗み出し、新羅に逃げようとした僧・道行の船が難破してこの地に漂着した際、神の怒りを恐れて剣を放り出したという逸話によるとする説である。ちなみに草薙剣盗難事件は、668年に発生した盗難事件だ。

「立売堀」を辿ると時は戦国・江戸時代へ

大正期以降は金属・機械の問屋街となった立売堀にある昭和2年築のレトロなビル

放出のほかに、大阪の難読地名としてよく話題にのぼるのが、「立売堀(いたちぼり)」「杭全(くまた)」。全国の難読地名ランキングなどでもよく上位に挙げられている。

「立売堀」はもともと「伊達堀(だてぼり)」という呼称で、大阪の役において徳川方の伊達氏が陣所を設けた場所に由来し、次第に「伊達」を“いたち”と読むようになった。その後、この堀の沿岸で材木の立ち売りが許可されたので地名が「立売堀」となったが、読み方は従来通りの“いたちぼり”が残ったという説が有力である。

「杭全」という地名については、かつてこの地域を流れていた息長川(おきなががわ)の氾濫を防ぐために杭を打ち、その作業が完了(全う)した際に、「杭全」という名が付いたと言われている。

また、古事記に登場する杙俣長日子王(くいまたながひこ)という人物に由来する説や、かつて多くの川がこの地で交差し、九つの股に分かれているような地形から九股(くまた)となり、後から漢字が変わったとする説など、諸説伝えられている。

横断歩道がなく、歩道橋を上るには階段のみで、自転車にとって不便なことでも知られる杭全交差点

大阪は、奈良や京都に都が開かれる以前、大和朝廷が拠点を置いていたという古い歴史を持ち、朝鮮半島から多くの渡来人が移り住んだ地でもある。そのため、太古の地形や神話・伝承、朝鮮の言葉に由来する難読地名が多く残っているのだ。また、江戸時代には上方の商業中心地として繁栄していたため、上方文化に由来する地名も多い。

大阪市民でも読めるか怪しい難読地名

先に挙げた「放出」や「立売堀」「杭全」などはよく話題にのぼることもあって、大阪人ならほとんど誰もが読めるようになってきている。しかし、大阪市内にはこのほかにも難読地名がまだまだある。その幾つかを列挙してみよう。

●河堀口(こぼれぐち)

現在地名としては存在せず、近鉄南大阪線の駅名としてのみ残っている。しかもこの駅は、すぐ隣に近鉄阿倍野橋駅及びJR天王寺駅というターミナルがある。そのため需要が低く、乗降車数の少ないマイナーな存在で、大阪人でも知らない人がいる。

由来は、788年和気清麻呂が開削した堀川にちなみ、この堀川を河堀(こぼり)と言っていたのがなまって“こぼれ”となり、その開削工事のスタート地点だったので“河堀口”となったとされている。なお、近くに「北河堀」「南河堀」という町名もあるが、こちらは“かわほり”という読みで統一されている。

大阪市内でも特に利用者数の少ないマイナーな駅「近鉄河堀口駅」

●住道矢田(すんじやた)

この地名がある現在の大阪市東住吉区には、中臣須牟地神社や神須牟地神社といった歴史の古い社がある。これらは道の神とされる住道神(すみちがみ)を祀っており、社名にある「須牟地(すむち)」も「住道」のことを表していると考えられている。ここから住道(すみち)が“すむち”となり、やがて“すんじ”に転訛(てんか)したと言われている。

●遠里小野(おりおの)

大阪市住之江区、及び堺市堺区にある地名。“すみの江の遠里小野の真萩もて……”と万葉集にも登場している地名で、この歌のように古くは“とおさとおの”と読んでいた。その頃この辺りは瓜を多く産出していたため、「瓜生野(うりうの)」とも呼ばれており、後にそれがなまって“おりおの”となり、「遠里小野」の字にその読みを当てたとされている。

●茨田大宮(まったおおみや)

大阪市鶴見区にある地名。茨という字は通常、訓読みで“いばら”、音読みで“シ・ジ”としか読めず、茨田を“まった”と読める人はまずいない。茨田とは古くは湿地帯を意味し、「万牟田(まむた)」という字も当てられていた。その“まむた”がなまって“まった”となったと言われる。

●道修町(どしょうまち)

この辺りを含む大阪市の北船場一帯は、かつて上町台地の西側にひろがる砂堆地帯で、台地との間が谷間になっていた。その谷が「どしょう谷」あるいは「どうしゅ谷」と呼ばれていたことに由来するという説があり、江戸時代中頃までは「道修谷」という地名であった。

薬の町として栄えた道修町には、現在も多くの製薬会社の拠点が置かれている

以上ここに挙げた5つは、地元住民や古くから代々大阪に住んでいる家の人でなければ、大阪人でさえ読めるかどうかかなり怪しい地名・駅名だ。

これが大阪市内から更に大阪府下まで範囲を広げると、茨木市の「道祖本(さいのもと)」、寝屋川市の「点野(しめの)」、そして富田林市の「廿山(つづやま)」や「毛人谷(えびたに)」など、ますます大阪人ですら読めないであろう地名が増えてくる。

もちろんそのそれぞれに何らかの由来があるわけで、それらを調べていくとその土地の歴史や過去の地理、さらには古代日本の言語のルーツなどが明らかになっていき興味深い。知的好奇心旺盛な人は、自分の住む町や県の地名の由来などを調べてみるのも面白いのではないだろうか。

●information
大阪市鶴見区「区名、地名の由来」

大阪市東住吉区「寺社・史跡・伝承」