仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの生涯を描いた手塚治虫による漫画作品『ブッダ』が、5月28日にアニメ映画で全三部作の第一部としてとして公開される。連載終了から約30年の時を経て、未だに根強く支持される本作の魅力はどこにあるのか。潮出版社で『ブッダ』の担当編集を務めた大浦靜雄氏に、連載当時の裏話や手塚治虫という人物について伺った。

大浦靜雄
大学卒業後、1976年潮出版社に入社。少年漫画誌『希望の友』に配属され、手塚治虫の『ブッダ』を連載終了まで担当した。現在は同社で取締役総務局長を務める

――さっそくですが、大浦さんが『ブッダ』を担当されることになった経緯を教えてください

大浦「私が潮出版社に入社したのは1976年のことだったのですが、そこで配属されたのが『希望の友』の編集部でした。この雑誌は小学生向けに漫画や小説を載せていたのですが、そこに手塚先生が『ブッダ』を連載されていて、私が入社する前年には新書版コミックスが5巻まで出ていました。それで、最初は先輩の編集アシスタントとしてつかせてもらって、1年か1年半後くらいに正式に担当することになりました」

――まだ新人だった頃にいきなり手塚先生を担当されたんですね

大浦「そうですね、手塚先生は私たちにすれば神様ですから、その先生の担当になること自体は非常に嬉しかったのですが、担当してから数ヶ月経ってしみじみ感じたのは、とにかく原稿が締め切り日に間に合わないということでした(笑)。連載のページ数は32ページが原則だったんですが、32ページ全部入ったことは私が担当してから数回あるかどうかです。24ページとか、20ページとか、その月によって違うのですが、最悪0ページ、つまり原稿が落ちることもありましたね」

――当時の手塚先生の忙しさは今でも語り草になっています

大浦「週刊誌連載を2、3本は持たれていましたからね。当時だとチャンピオンに『ブラック・ジャック』、マガジンの『三つ目がとおる』、他にもサンデーやビッグコミックで描かれていましたし、月刊誌だとマンガ少年での『火の鳥』、リリカで『ユニコ』を連載されていました。それ以外にも飛び込みでインタビューとか、何かにちょっとワンカット描くとか、そういう仕事があるわけです。また海外にもアニメのイベントなどがあると行かないといけないので、そのときは海外から電話がかかってきて『何ページの何コマ目はこうしろ』という指示が入ることもありましたね。逆に私は手塚先生を経験したために、以後はもう怖いものはなくなりました(笑)。そういう意味では今思えば人間修業になったと言えますね。そのときは本当に必死でしたけど」……続きを読む