東京・早稲田は江戸川橋駅から徒歩5分、大きな交差点に面したビルの2階に『現代マンガ図書館 - 内記コレクション』がある。実に18万冊以上(関連資料なども含めると20万点を超える)のマンガ蔵書を持つ、私設の図書館だ。図書館の形でマンガを収蔵する施設として、京都国際マンガミュージアムに次ぐ規模であることは間違いない。館長である内記稔夫(ないきとしお)氏は、その京都国際マンガミュージアムの設立にも多大な貢献をしている。日本マンガ史の歴史的資料は内記氏抜きには語れないのだ。

鶴巻町交差点に面して建つ現代マンガ図書館のビル。入口は2階

高校3年生のベンチャー貸本屋から

1978年に開館したこの図書館は、館長である内記氏のコレクションが基礎となっている。子供の頃からマンガ好きでマンガ家になることを目指し、月刊『少年』などの雑誌に絵を投稿していたという内記氏。貸本屋の経営を思い立ち、母親名義で店を借りて開店したのは1955年、高校3年生の時だった。姉妹たちの協力で学校から一番早く帰った者が店を開けるという体制を作り、順調に経営を続けた。高校生にして貸本屋を始めたのは、6人兄弟の長男として早く稼ぎ手になることを考えていたと同時に、思う存分好きな本を買える、という理由が大きかったという。東京・御徒町の問屋街に行っては好きなマンガをどんどん仕入れたそうだ。

貸本屋を経営しながら引き続きマンガ家を目指していた内記氏だが、同世代からは、楳図かずお、石森章太郎などの大物作家が次々と登場してきた。冗談交じりに「それを言い訳にあきらめました」と笑うが、貸本屋が繁盛したことで経営に本腰が入っていったことも重なっている。

1970年代になると、それまでただ「悪書」とされてきたマンガが徐々に市民権を得るようになった。一方で、貸本業者の廃業が相次ぎ、マンガ評論家の石子順造氏を中心に「貸本マンガを残していかなくては」と考える人々が集まって「貸本文化研究会」が立ち上げられた。いろいろな面で貸本業界を取り巻く環境が変わっていく時代だった。程なくして石子氏が亡くなり、また区画整理のため現在のビルが建てられたことなど、いくつかのきっかけが重なり、研究会の仲間の後押しもあって氏のコレクションを公開する施設を作ることとなった。

広い建物ではないが、マンガ好きなら足を踏み入れた瞬間に無限の空間が見えるだろう

内記氏はNHKドラマ「ゲゲゲの女房」で貸本店の美術考証、演技指導などに協力した

開館準備には研究会の仲間だけでなく内記氏の店の常連客、さらに設立話を聞きつけたマンガ好き有志まで多くの人が協力してくれた。自宅などに保管されていた約2万7千冊のマンガをトラックで運び込み、リスト作成やカード作り、配架などの整備を行った。これに貸本組合員からの寄贈を含めた約3万冊の蔵書を揃え、1978年11月1日、ついにオープンにこぎ付けた。

開館三日目の11月3日(手塚氏の誕生日)には手塚治虫氏が突然来館。内記氏と握手を交わし、労いの言葉に開館を手伝ったスタッフが涙した

同館では現在も資料の収集を継続しており、その内訳は雑誌から単行本、マンガ評論や研究書籍まで多岐にわたる。ポスターやアニメのセル画、ビデオなど、内記氏を頼って寄贈されたマンガ以外の資料も多いが、整備が追いつかず残念ながら公開に至っていない。……つづきを読む