――『月刊ホビージャパン』(ホビージャパン刊)でも、お書きになり始めますね。
「編集部に電話して、『書かせてほしいんですけど』と言ったら、『あ、いいですよ』って(笑)」
――そんなにあっさりとですか(笑)?
「当時アメトイ(アメリカン・トイ)がブームだったこともあったんでしょうね」
――海外トイについての書き手の需要があったということなんでしょうか。
「そうかもしれませんね。当時、『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス刊)で『スター・トレック』フィギュア特集が組まれた時も全部お任せでやらせていただきましたし……」
――そのときは、ご自身のコレクションも役に立ったんですか?
「一番役に立ちましたね。ああ、集めててよかったと(笑)」
――ここまでは、ライターとしてのお仕事のお話ですが、そこからオモチャ作りへはどうつながっていくんでしょう?
「物書きとしてオモチャの記事を書いていて、だんだん自分でも作りたくなってきたというのもありますね。それと、先ほどお話に出た『パンドラ』という番組でお知り合いになった河崎実さんが、あるときいいことをおっしゃってくださったんですよ」
――と、おっしゃいますと……。
「『コレクターじゃダメだよ、クリエイターにならなきゃ』って。そのころ、河崎さんのご自宅にうかがったことがあるんですけど、河崎さんはすごいオタクなのにコレクションは部屋の一部に収まってる分しかないんですよ。『オレは、これだけでいいんだよ』って。それから考え方がちょっと変わりましたね」
――コレクターって、言葉を代えると消費者ですよね。ものや情報を手に入れたところで完結する。それを表現する段階まで進めると、クリエイターになるわけですね。
「そうですね。ちなみに、河崎さんには亡くなった実相寺昭雄さんを紹介していただいたこともあり、それが後の『昭和情景博物館』シリーズ誕生のキッカケになりました」
食玩、昭和情景博物館シリーズの中の1つ、故・実相寺昭雄監督お気に入りの阪神電鉄国道線71形。愛称『金魚鉢』(C)Reo/F-toys |
昭和情景博物館、都電とストラクチャー。都電6000形。企画監修は故・実相寺昭雄監督 |
――お話を戻しますと、オモチャを作りたいとお思いだった時期に、商品化のお話が舞い込んで来たんですね。
「広告を担当させていただいてお付き合いのあった大阪のホビーショップ、リバティプラネットさんからオモチャを作りたいという相談を受けたんです」
――ホビーショップがオモチャ作りに乗り出されたんですか?
「当時、いろいろな方面からフィギュアメーカーが次々に誕生した、そういう時代だったんですね」
――そこから、いよいよ玩具プロデューサーとしてのお仕事が始まるわけですね。
「最初に手がけたのは、リバティプラネットさんからお話のあった黄金バットのソフビ商品でした。黄金バットの版権元に出かけて行って交渉したのが、仕事始めでしたね」
――オタクとして、そういう方面にお詳しかったのが幸いしたわけですね。
「その上、最初に就職した会社でシリコンの型取りを教わっていましたからね。もの作りについて、素材と方法を知っていたのも役に立ちました」