――ここからは、安斎さんがいかにして玩具プロデューサーになられたのか、その道のりをうかがってまいりたいと思うのですが……。
「京都嵯峨芸術大学で学んで卒業するとき、オモチャの会社に行きたかったんですが、そういう求人がなかったのでデザインモデルを作る会社に就職しました」
――その会社では、どんなことをなさってらしたんですか?
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「精密に作られたデザインモデルをシリコンで型取りして、2液混合型のレジンで複製を作るという、今の原型師みたいな仕事でしたね。ところが、その会社が閉鎖されてしまったんです」
――それで、どうなさったんですか?
「たまたま雑誌の求人を見て、カネボウ系列のパッケージデザインをする会社に入りました」
――そこでのお仕事は、どのようなものでしたか?
「商品パッケージの版下を作っていました。当時はコンピューターではなく手作業でですね。それを印刷所に回して色を確認したりだとか……」
――その後、その会社を退社なさるわけですね。
「20代の終わりに病気で入院しまして、自分を見つめ直す時間を持ちました。その結果、もっと自分のやりたいことをやってみたくなったんです。それで会社を辞めました」
――辞めた後どうするのか、あてはあったんですか?
「なにもありませんでしたね(笑)」
――ちなみに、それまでは、いわゆるサラリーマンで、あくまでオタクの趣味としてオモチャのコレクションなどをなさってらしたわけですね。
「そうですね」
――以前、わたしも出演させていただいていた『地球防衛放送パンドラ』という番組で紹介されていましたが、扉を開けると部屋がコレクションでギッシリみたいな……。
「稼いだ分は全部オモチャにつぎ込んでいました(笑)。結構なコレクターでしたね」
――そのコレクションが上京されるキッカケになったんですね。
「ええ。雑誌で紹介された僕のコレクションを見た方に、東京のイベントのゲストとして呼んでいただいたんです。そこで、別の雑誌の編集者の方と知り合い、それが出発点になって、『フィギュア王』(ワールドフォトプレス刊)の創刊時から、お手伝いさせていただくことになったわけです」
――編集者ではなく、ライターということですか?
「そうです。ところが、そうは言っても当時はライター兼カメラマン兼デザイン……と全部自分でやってました。自宅で照明焚いて、写真撮って、ポジを加工して、レイアウト組んで、キャプション書いて、版下作って、という」
――それは、重宝がられたでしょうね(笑)。
「会社勤めをしていたときに身につけた印刷についてのノウハウが、このとき、とても役に立ちました」