新しいキャリア、新しい場所…。新しいことにトライするには、苦難や苦労がつきものです。ただ、その先には希望があります。本連載は、あなたの街の0123でおなじみの「アート引越センター」の提供でお送りする、新天地で活躍する人に密着した企画「NewLife - 新しい、スタート -」。第10回目は、元19(ジューク)、3B LAB.☆Sの岡平健治さんにお話をうかがいました。
19解散後、経営者として不動産事業も展開
ミレニアム・イヤーを控えた1998年にデビューし、瞬く間にJ-POPシーンを席巻したフォークデュオ「19」。デビュー翌年には「NHK紅白歌合戦」に初出場し、2000年のシドニーオリンピックでは日本代表選手団公式応援ソングに楽曲が起用されるなど、一躍トップアーティストの仲間入りを果たします。
しかし、2002年に突然の解散。デビューから約3年半、誰もが驚く人気絶頂時の解散でした。それから17年。元19の岡平健治さんは経営者として不動産事業を展開しています。
今も挑戦を続ける岡平さんが、若い人に伝えたい哲学とは――。
「自分たちの実力じゃない」。デビュー直後の大ブレイクで感じた本音
「生まれたときから、いつも音楽が身近にありました」
そう話す岡平さんは、まさに音楽の英才教育を受けて育ちました。
広島県呉市の自宅にはグランドピアノやアップライトピアノが置かれた音楽室があり、幼少期には“音楽のキンダーガーデン”といわれる名門幼稚園に入ります。音楽を聴くことも楽器を演奏することも当たり前の毎日を過ごし、感性を磨いていきました。
12歳のときには、初めて受けたオーディションを通過。呉市から広島市内にある大手音楽教室まで通い、金の卵としてレッスンに励んでいたそうです。
プロを本気で志すようになったのは15歳のとき。あるオーディションに応募したところ、大手レコード会社「ビクターエンタテインメント」からスカウトされたのです。
ビクターさんから声をかけてもらって「俺って才能あるのかな?」と(笑)。所属していた音楽教室から移籍したのですが、そこから「1か月に10曲作る」というノルマを課せられました。それを2年間。東京にも頻繁に足を運ぶようになり本当に大変でしたが、高田さんというディレクターさんのおかげで続けることができました。きつい言葉を言われる反面、涙を流しながら「良い曲だ」と褒めてくれたこともあります |
高田さんの支えもあって今まで以上に音楽にのめり込むようになっていった岡平さん。しかし、当時は息子の将来を心配する両親との間に溝ができたこともあり、17歳のときに家出をして広島を飛び出しました。
ギターとハンドバックひとつだけ持って家出して、東京でもその前に住んでいた大阪でも、アパートは家賃2万円以下の風呂無し・共同トイレ。仕送りは一切無し。先輩たちから「70年代の人間みたい」とおもしろがられましたが、アルバイトをしながら生計を立てつつ自由気ままに暮らせて楽しかったです。「貧乏こそ強い」と心底思いましたね(笑) |
その翌年、1998年に岩瀬敬吾さんと19としてデビュー。1999年に発表した「あの紙ヒコーキ くもり空わって」が大ヒットし、いきなりのブレイクを飾りました。
右も左もわからない状態で必死でしたが、どこか冷静なところもあって。「これは自分たちの実力じゃない。レコード会社や事務所の人たちのサポートがあってこそのラッキーに過ぎないんだ」と客観的に見ていました |
「どんなに実力があっても売れるとは限らない」。10代の早い時期から音楽業界に身を置き、厳しい現実を目の当たりにしていただけに、周囲に対する感謝の気持ちを忘れることはなかったと言います。
投資で資産を増やし会社を設立。社員の成長が一番の喜び
19はヒット曲を連発。自分が稼いだお金で大好きな自動車やバイクを購入できたときは大きな喜びを感じたそうです。ただ、お金で心が満たされるのとは逆に、虚無感に襲われるようにもなったといいます。
その虚しさが積み重なるうちに19を続けていくパワーが無くなってしまいました。もしかしたら、あと5年くらいは人気が続いていたかもしれません。でも、当時は限界でした |
解散から17年。「今でも19を応援してくれていたファンには申し訳ない気持ちでいっぱい」と話す岡平さんの表情は神妙でした。19解散後もバンド活動を続ける傍ら「全国47都道府県自走TOUR」と銘打って10年間休む事無くたった一人で車を運転し、全国のファンに会いに行ったのは、岡平さんなりの恩返しだったに他なりません。
そして自走TOURを終えたばかりの2010年、29歳のときに不動産経営に着手します。突然にも思われる転身ですが、19解散直後の2002年から綿密に計画を立てていたそうです。そのきっかけは「これから音楽業界は下火になっていくだろう」という予感でした。
ただでさえ音楽で食べていくのは難しい日本で、これからはその傾向が加速するだろうと株式投資や外貨投資を始めていました。もともと経済や地歴・公民といった分野の勉強が好きだったので、投資には向いていたみたいです。時間をかけて資産を増やし、満を持して会社を設立しました |
今では不動産事業を皮切りに、ライブハウスやレコーディングスタジオ、飲食店の経営、さらにはミュージックビデオや企業CMといった映像制作などまで幅広く手がける岡平さん。2035年には、同じ敷地内に幼稚園や保育園と介護施設があり、地下にコンサートホールを備えた複合施設をつくりたいという創大な展望も語ってくれました。今年で10期目を迎えて設立時から無借金経営を続けていますが、新事業を展開していくことに不安は無いと断言します。
社員の才能を信じていますから。今は彼らが育っていく姿を見るのが一番の喜びです。僕も若いときにはたくさんの人に助けてもらいました。今度は、僕が若い人たちにがんばる場所を提供していく番だと考えています |
「こちらから誠実に向き合えば社員は必ず応えてくれる」。この考え方には母親の影響が色濃く残っているようです。
うちの母は僕や姉を子ども扱いしませんでした。話すときも敬語で。それはドライなものではなく、人として尊重してくれているのが子どもながらに伝わってきました。そういう姿勢で接してもらえると「しっかりしなくちゃ」と気が引き締まったのを覚えています |
誰に対しても誠実に愛情を持って接すれば、目の前の景色が変わる
母親の影響で根付いた「自分から相手に歩み寄る」という岡平さんのスタンスは、音楽活動によって確固たるものとなったそうです。
特に19として活動していた時期は、毎日違う現場を訪れていろんなスタッフさんたちと仕事をしていました。初めて会う音響さんやカメラマンさんと仕事をする機会も多く、気持ち良く働いてもらうには短時間で良好な人間関係を築かなければなりません。そんなとき、自分から誠実に向き合うことで相手も心を開いてくれました |
岡平さんは「広い視野で世の中を見渡して、みんなどこかでつながっているということに気づいてほしい」と力を込めます。
生きている限り誰とどこで接点が生まれるかわかりませんし、同じ社会に生きている以上はみんなで支え合っています。そう考えれば「この人は自分にとって関係のない人だから」などと無下に扱ったりするようなことはしなくなるはず。誰に対しても誠実に愛情を持って接すれば、目の前の景色が変わりますよ |
音楽の世界で華々しくスターダムを駆け上がり、現在はビジネスの世界でも活躍している岡平さんですが、これらの成功の裏には「この人のためなら」と周囲の人たちに思わせる人柄があるのでしょう。
インタビューの最後、これからチャレンジを始める読者に応援メッセージを求めると、ジョークを交えつつこう答えてくれました。
僕はあなたのことを知らないし、あなたも僕のことを知らないかもしれない。でも、どこかできっとつながっているから見守っています。つらいこともイヤなことも時間が経てばすべて笑い話になる。僕なんて1億円も騙されたんだから(笑)。おいしい話は無いから気を付けて。答えは全力で取り組んだ先にしかありません。だから、がんばりんさいよ |
小学6年生のときに文集に書いたのは「将来の夢:会社をひらく」「好きな言葉:愛」。誠実に愛情深く生きてきた結果、岡平さんは小さな頃に描いた夢をかなえたのでした。
アート引越センターは、一件一件のお引越に思いをこめて、心のこもったサービスで新生活のスタートをサポート。お客さまの「あったらいいな」の気持ちを大切に、お客さまの視点に立ったサービスを提供していきます。
岡平健治
1979年3月28日
長崎県生まれ広島県呉市育ち
フォークデュオ「19」として活動し、解散後に不動産経営者に。音楽活動も続けており、2019年はツアーも実施している。
interview photo:大塚素久(SYASYA)
[PR]提供:アート引越センター(アートコーポレーション)