注目を集めるテレビ番組のディレクター、プロデューサー、放送作家、脚本家たちを、プロフェッショナルとしての尊敬の念を込めて“テレビ屋”と呼び、作り手の素顔を通して、番組の面白さを探っていく連載インタビュー「テレビ屋の声」。今回の“テレビ屋”は、放送作家の堀江利幸氏だ。
『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ系、毎週木曜20:00~)の長寿看板コーナー「ゴチになります!」や、世界45カ国でリメイクされる『¥マネーの虎』などを考案した堀江氏。“真剣勝負”や“ガチ感”が人気の背景にあるこれらの大ヒットコンテンツは、「追い込まれた状況で、設定されたバーを越えたときのカタルシスが見たい」という発想から生まれたと語る――。
■幸運が重なって憧れのたけしの番組に
――当連載に前回登場した放送作家の桝本壮志さんが、堀江さんについて、「『ぐるナイ』で堀江さんが『ゴチ』のスタッフに指名してくださらなかったら、僕の放送作家として今はないです。企画の着想も発想法も、あの頃からずっと堀江さんに影響されています。当時から毎週ご飯を一緒にしてくれて、今も誘ってくれる堀江さんをお慕いしています」と言っていました。
そう言ってもらえると、すごくうれしいですね。
――「ゴチ」で桝本さんを指名された決め手は何だったのですか?
当時、「ゴチ」班の作家は僕だけだったので、サポートしてくれる人が欲しかったのと、違う角度の意見があったほうが厚みが出るかなと思ったんです。桝本が番組に加わって最初に出した企画が、会議で演出にちょっと否定されたんですね。でも、僕はその企画が全然成立してると思って、それをひと言伝えたくて、飲みに誘ったんですよ。そしたら、お互い野球が好きで、放送作家のダンカンさんの本がバイブルだったり、誘って正解でした。感覚が近くて、すごくやりやすかったんですよね。
――どんなところが近かったのですか?
ネタの出どころがわからないというか、ネットの情報とかから安易に考えてないというか。あえて時代と逆行してたり、隙間を突いたりする発想が、ちょっと似てるのかなと思いました。
――堀江さんはどのようにして放送作家になられたのですか?
中学生のときにビートたけしさんの『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)に夢中になり、たけしさんに憧れると同時に、その傍らにいる高田文夫さんの存在が気になって、放送作家という職業の人がラジオやテレビを仕掛けてるんだということを認識しました。たけしさんに近づくには放送作家になるしかないと強く思い始めて、僕は出身が群馬で、親に「放送作家になりたい」なんて言い出せなかったものですから、とりあえず東京の大学に行って、その4年間で何とかテレビ業界に潜り込めないかと思って東京に出ました。
そしたら大学3年の夏に、『オールナイトニッポン』で「最後のたけし軍団オーディション」というのがあり、もちろん芸人さんの募集だったんですけど、放送作家としてダンカンさんの弟子になりたいと履歴書を送ったところ、なぜか書類審査に通りまして。有楽町のニッポン放送で軍団さんによるグループ面接があり、他の応募者は「じゃあ陰毛燃やしまーす」とかアピールしてましたけど、僕は何もないので「すいません、作家志望でして。場違いで申し訳ありません」ってただ謝ってました。結局落ちたんですけど、不思議なことに終わった後ダンカンさんが「飯行こうぜ」って誘ってくださいまして、表参道の焼肉屋に連れて行ってもらいました。
――優しいですね!
そこでダンカンさんにいろんなお話をしていただきましたが、最後に「今日なんで誘ったかというと、たけしさんに『1人作家志望がいるから面倒見てやれよ』って言われたんだよ」って伝えられて、もう感激して泣きそうになりました。ただ結局は「放送作家は難しい仕事だから、大学卒業してちゃんと就職したほうがいい」と断られましたが、たけしさんのありがたいお言葉と、ダンカンさんに親身になって話していただいたことで絶対に放送作家になるという思いが固まりました。
その半年後、フジテレビで『北野ファンクラブ』というたけしさんの番組が始まって、コーナーの企画募集があったんです。そこにいくつか考えて応募したら、制作会社のイーストの方から「1回収録見学してみる?」と電話がありまして、当時河田町にあったフジテレビのスタジオを初めて見学させていただきましたが、そこで構成作家のそーたにさんと、おちまさとさんを紹介していただきました。おちさんは僕の企画を覚えてくださってて、「ディテールがいいよ、そういうの大事だから」と言ってくれて、プロの方に初めて褒めてもらえたのがうれかったですね。
――どんな企画を送ったのですか?
しょーもないネタですが、飲み屋に入ってきて歌う「流し」って職業あるじゃないですか。その全裸版で、ギターで股間を隠して入ってくる『全裸流し』というだけなんですけど、そんなイラストに吹き出しで、渥美二郎さんの「夢追い酒」の一節を添えて出したんですね。渥美二郎さんというのは流し出身の歌手なんですけど、その細かい部分をおちさんに褒められました(笑)
そーたにさんには、「本気で作家やりたいんだったらここに連絡して」と、ロコモーション(=テリー伊藤が設立した放送作家事務所)の名刺を頂きまして。当時携帯電話はなかったので自宅の電話番号を書いてくださって、2~3日真剣に考えて、勇気を出して電話したんですけど、「お前なんでこの番号知ってんだ?」って(笑)
――そんなに日にちも経ってないのに(笑)
「収録現場でお名刺を頂きまして…」と言ったら、「あそう。じゃあ伊藤さん紹介してやるよ」と。麹町の日本テレビで伊藤さんを紹介していただき、ロコモーションに入って『(天才・たけしの)元気が出るテレビ!!』のスタッフになれました。僕は『北野ファンクラブ』をやりたかったんですけど、そーたにさんが「マニアックな深夜番組から始めずに、まずは王道を学んだほうがいい」と。
――でも、見事狙い通りにたけしさんに近づけたわけですね。
本当にラッキーにラッキーが重なった感じですね。
■張り付けられた上島竜兵さんが湖で大爆破
――当時の『元気が出るテレビ』は、超人気番組ですよね。
僕が入ったときは第2回「ダンス甲子園」で一番盛り上がってる頃でした。最初は先輩の作家さんたちの会議用の企画をコピーするのから始まったんですけど、初日にそーたにさんから、IVS(IVSテレビ制作=『元気が出るテレビ』の制作会社)のデスクを借りて紙を渡されて「今から2時間やるから、企画100個考えろ」って言われました。でも、知らない場所で緊張しすぎて面白いことが何も浮かばなくて。2時間経ったらそーたにさんが帰ってきたんですけど、7個しか書けてなくて「もっと数書かなきゃダメだ」って叱られました。ただ、その中の「川合俊一のアタックをどんな手を使ってもいいから止めよう」ってネタで、一瞬そーたにさんがニヤっとしたのがうれしかったのを覚えています。わけ分かんない企画ですが。
――最初に通った企画は、どんなものだったのですか?
『元気が出るテレビ』と同時に、『(ビートたけしの)お笑いウルトラクイズ!!』にも入れていただいて、そっちの採用のほうが早かったんです。富士五湖の湖でボートの舳先に上島竜兵さんを張り付けて湖上を爆走して、最後はハリボテの客船に突っ込んで大爆破するっていうネタでした(笑)
――時代ですね(笑)。やはりレギュラーの『元気が出るテレビ』は、基礎を学んだ場でしたか?
入って1カ月後ぐらいに、初めてロケ台本を振られました。でもどう書いていいのか分からず、原稿を前にしてボーッとしてたら、おちさんが近づいてきて「自分がディレクターで撮るつもりで書けばいいんだよ」と言われまして。作家もディレクターと同じくらい現場や演者さんのことを細かく考えろってことかなぁと解釈して「分かりました」って返事しましたけど、やっぱり台本書けませんでした(笑)。僕はそのとき22歳で、おちさんは25歳で、おちさんはもうすでに完成している放送作家という印象でした。他にも、そーたにさんや都築浩さんらロコモーションには優秀な方がそろっていて、僕はとても追いつけそうもなく不安な気持ちしかなかったです。
――そこから「放送作家でやっていける」と自信になったのは、どんな企画だったのでしょうか?
ロコモーションには3年間在籍し、そのあとフリーになったんですけど、「これからは失敗はすべて自分のせい、自分で責任を負うしかない」と開き直れました。新しい環境でプレッシャーもなく自由に企画を考えてるうちに、「ゴチになります!」とか企画が通りはじめ、少し光が差し込んできた気がしました。