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ドラマにありがちなシチュエーション、バラエティで一瞬だけ静まる瞬間、
わずかに取り乱すニュースキャスター……テレビが繰り広げるワンシーン。
敢えて人名も番組名も出さず、ある一瞬だけにフォーカスする異色のテレビ論。
その視点からは、仕事でも人生の様々なシーンでも役立つ(かもしれない)
「ものの見方」が見えてくる。
ライター・武田砂鉄さんが
執拗にワンシーンを追い求める連載です。
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固定電話オンリーで学生時代を過ごした最後の世代

中学時代、イケてる同級生からポケベルを持ち始め、高校時代、イケてる同級生から携帯電話を持ち始めた。雲一つないほど晴れやかにイケてなかった私は、中高通じて家の固定電話オンリーだった。高校を卒業する頃には携帯電話を持っていない人はクラスで数名になっていた。今から振り返ると、そんな自分は「固定電話オンリーで学生時代を過ごした最後の世代」だったのだ、と気付く。これは語り継がねばならない。イケてる同級生がそれなりに男女交際を進めている間、こちらは、学校のそばにある公園のブランコを過剰にこぎ、その勢いで靴をどこまで飛ばせるか、仲間内で競い合っていた。単刀直入に言えば、イケてる同級生がキスとかしている間に、靴を木に引っかけて途方に暮れていたりした。

制約があると燃え上がるのが恋愛らしい

とはいえ、こちらにも、ほんの数回は女子の家に電話をする機会があった。もちろん、浮ついた電話ではなく、緊急の報告事項が発生したに過ぎない。名前の入った配布物が混在していた、とかそんな理由だった。それでも、電話に出たあちらの親に「えっと、あの、○子さんと同じクラスの……」と申し出るのは、尋常ではない緊張感があった。話すこちらにも、話を受け取る女の子側にも、明らかに背後に親の気配がある。こうなると、相手に対しても、自分の背後に対しても言葉を選ばなければいけない。

ブランコで靴を飛ばすことを生業にしている人間にはその手のテクニックが一切欠けている。「あ、なんかさ、混じってた、宿題のプリント、これ、だいじょうぶ?」「うん、コピーとかしてもらえるし」「あ、そうか」「わざわざありがとう。じゃあね」「あ、うん」。少しも浮ついていなかった日常だったから、飛躍に飛躍を重ねて「これが恋愛か」くらいのことを思ったものだが、どう考えても恋愛ではなく報告だった。制約があると燃え上がるのが恋愛らしいとかそういう情報だけは内蔵されていたのだが、やっぱりどう転がっても報告だった。

家族と共有することで生まれた制約

最後の固定電話世代には、もしもあのとき携帯を持っていればバラ色の学生生活になっていたのではないかという夢想が許される。それは、「殆どの人が持っていた携帯電話を持たずに固定電話のみ」というデリケートな状態にあったからこそ生々しく使える「たられば」である。携帯を持っていればバラ色になるはずだった学生生活、こちらは率先して固定電話オンリー、というハンデを背負ったのだ。

今、誰かとコミュニケーションする手段が、ほとんど手持ちのスマートフォンになっていることを今さら指摘しても仕方ないのだが、「家族と共有することで生まれた制約」が静かに失われてきたことは記しておきたい。「テレビを観なくなった若者たち」という方向の議題は押し並べてつまらないが、具体的にどういう光景が失われたのかをじっくり考えてみたい。

チャンネル争いは死語になった

「チャンネル争い」という言葉は死語になった。もう争わない。その昔、チャンネル争いがきっかけとなった殺傷事件まで生じているが、自分の好きな番組を録り貯めておける時代に、争う必要性は無くなった。チャンネル権、という限られたコミュニティー内で保持された明確な権利は、父権を誇示する役割も果たしていたはずで、「父権とチャンネル権」というテーマで壮大な戦後史が書けるかもしれない。

自分の経験を言えば、我が家ではなんだかんだで父親がチャンネル権を持っていた。チャンネル権を譲渡してもらう建設的な方法は一つ、寝てもらうしかなかった。野球中継を観ている父親が、徐々にうとうとしてくると、熟睡へと誘い出すために音量を下げていく。寝静まったのを確認し、チャンネルを変え、バレない程度に音量を上げていく。その微調整、睡眠状態の把握と音量のバランスには絶大なる自信があった。

ラブシーン突入を1分前から予測する

家族団欒の場でテレビに映り込むラブシーンは、数々の家族を分断し、夕食の場を沈黙させてきた。チャンネル権を持つ父親は、下手糞な回避をする。もっとも分かりやすい回避は「あれ、巨人×中日はもう終わったんだっけ?」と気になる試合経過を確認すること。もっとも難易度が高いのは、ラブシーンに突入したテレビを上回る議題を新たに提出すること。「あれ、林くんって、部活辞めたんだよね?」という、そんなに鮮度の高くない話題でも、家族一丸となってこの案件を高めていく。だって、画面では男と女が絡み合っているのだ、林くんに頼らざるを得ない。コーチに嫌われただけなんだよ、だから、あのコーチ、ホント、許せねーよ、と、わざとらしく怒り直す。

家族団欒に投下されたラブシーンの気まずさを何回か経験すると、これはもう事前に察知すべきことなのではないか、と構えるようになる。1分後にラブシーンがやってくる、と予測出来れば、きわめて自然に「えーっと、巨人×中日はもう終わったんだっけ?」と発してチャンネルを替えることができる。問題は、ラブシーンをどうやって1分前から予測するかである。恋人同士が夜遅くに薄明かりの部屋に帰ってきたならばほぼ決定と考えてよい。ソファーかベッドに夕日が射し込んでいる場合も危険だ。この場合、いち早く巨人×中日の試合経過の確認へ急ぎたい。内容を問わず、これまで賑々しかった会話がふと止まった時も要注意である。部屋ではないからと安心していると、公園のベンチでキスを始める。なぜだか、次の瞬間には部屋で事に及んでいる可能性がある。この時点からあたふた巨人×中日に切り替えるようでは、気まずさは膨れ上がる。

家族団欒を乱してきたという「歴史認識」

比較的浅い時間帯のドラマであれば、そこまで踏み込んだラブシーンは描かれないだろうから、その手のシチュエーションに陥っても、そのまま個々人で耐えてみるという判断もあり得る。男女の影がベッドに倒れこんでいくことを合図に始まるラブシーン、次のカットでは握り合う手、次のカットでは生命体のように動く布団、と続く。これくらいの展開に留まるものであれば、時間にして10数秒だから、なんとか耐えられなくもない。わざわざチャンネルを替えるよりも団欒の空気は保たれる。しかし、思いのほか長丁場だった場合、途中から巨人×中日に頼ることはできない。

書き始めた時点から気付いていたが、もはや野球中継は民放で常に放送されているわけではない。どこかのチャンネルが野球中継をしている、という状態はこの10年程度ですっかり薄まってしまった。ラブシーンが始まった時の避難先が今はもうない。でも、その代わりに、チャンネル権というものも存在しなくなった。「ラブシーンから逃げる」という行為及び心情はもはや存在しないわけだ。視聴率だけではなく、録画視聴も含めた視聴率の導入が叫ばれる現在、ラブシーンは個々人の趣味や思いのなかでじっくりと堪能されている。しかし、装置としてのラブシーンが家族団欒を乱してきたという「歴史認識」を忘れてはいけない。

ここから2分30秒後にラブシーンが始まるだろう

ラブシーンから巨人×中日に慌ただしく切り替えた場合、ひとまず暫定的にチャンネルを変えたに過ぎない以上、やっぱりどこかで元に戻すことが求められる。巨人×中日が1アウト満塁ならばそのままの勢いで視聴を続けてしまうこともできるが、2アウト・ランナー無しの場合、「もう終わったんだっけ?」で移ったならば、すぐに戻さなければいけない。先ほど例示したように、ラブシーンの長さはドラマによってまちまちだから、チャンネルを戻した時にまだ続行中の場合、これはただただ悲劇。家族の団欒は崩壊する。わざわざラブシーンにチャンネルを合わせた、という構図が生まれるからである。

どの媒体で見聞きしたのかすっかり失念したが、2時間ドラマを沢山観ている猛者の話として、その人は、新聞のラテ欄を見ただけで、おおよそ犯人の目星が付くという。ドキドキハラハラ犯人を探すのではなく、確認作業のように2時間を過ごす。日々を生きる上では全く必要の無い嗅覚だが、これと同様にラブシーンの数をこなしていけば、我々はラブシーンを予測する嗅覚を得ることができるのではないか。部屋に入ってきたら……では遅い。「風が吹けば桶屋が儲かる」の理論で、かなり前の段階からラブシーンの到来を予測していく。

「悩み事を相談している喫茶店→おおよそ飲み干した珈琲カップ→窓に帰宅中のサラリーマンの姿が見える→すっかり日が暮れている→喫茶店を出る→部屋に招き入れる→ソファーに座る→会話が止まる→ラブシーンが始まる」。この場合、「喫茶店を出る」くらいでチャンネルを替えるようではまだまだ若い。玄人は「おおよそ飲み干した珈琲カップ」くらいで勘付く。ああ、ここから2分30秒後にラブシーンが始まるだろう、と。家族の団欒を何がなんでも維持したい誰かはそれくらいの嗅覚が求められる。

とにかくラブシーンに慣れない

ラブシーンが終わると、2人共に裸でシーツにくるまった朝がやってくるが、単刀直入に問うと、みんなそういう時って裸のまま寝ているのだろうか。近所の公園でブランコに乗って靴をどこまで飛ばせるか競い合っていた頃、「なんかみんな、そういう方向で、すんごい進んでいるんだろうな」という強固なコンプレックスがあったし、その感じって、一通り体験した後でも実はあんまり変わっていない。2人共に裸でシーツにくるまった朝を見せられたりすると、靴飛ばし時期の気持ちがヒリヒリと再燃する。とにかくラブシーンに慣れない。そっち方面に出遅れたコンプレックスが、猛烈な勢いで体に充満してしまうのだ。

<著者プロフィール>
武田砂鉄
ライター/編集。1982年生まれ。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」「LITERA」で連載を持ち、雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」等で執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。

イラスト: 川崎タカオ