線路が分断された路線といえば、まず信越本線が思い浮かぶ。北陸新幹線が長野駅まで開業した際、難所だった碓氷峠区間の横川~軽井沢間が廃止された。線路が途切れてしまったから直通列車を運行できない。しかも新幹線開業にともなう並行在来線の経営分離によって、軽井沢~篠ノ井間と長野~妙高高原間はしなの鉄道へ、妙高高原~直江津間はえちごトキめき鉄道へ移管された。現在の信越本線は3つの区間に分かれている。

同一路線として扱い、路線図や時刻表の索引地図で見るとつながっているのに、じつは線路が分断された路線もある。代表的な例が阪急電鉄の今津線だ。起点から終点まで直通できず、途中駅で折り返す区間運転となっている。一体どんな経緯だろうか。

西宮北口駅の航空写真(2009年)。阪急今津線は駅の北側・南側にホームがあり、阪急神戸本線に遮られている(出典 : 国土地理院ウェブサイト。航空写真「CKK20092-C36-56」を加工)

阪急今津線は1921(大正10)年に西宮北口~宝塚間で開業した。当時の路線名は両駅の駅名から1文字ずつ取って「西宝線」だった。宝塚駅には宝塚本線、西宮北口駅には神戸本線が通じている。宝塚駅から神戸方面に行く場合、逆方向の梅田方面に向かって乗り換える必要があった。西宝線はその短絡ルートとしての役目もあったと思われる。

この路線は宝塚と今津港を結ぶ区間で免許を受けていた。後に計画を変更し、今津駅で阪神本線と接続する計画になった。阪神電気鉄道はこの計画に合わせて今津駅の位置を変更している。西宝線の開業から5年後、1926(大正15)年に今津駅まで延伸開業し、路線名は今津線に変更された。

このとき、神戸本線とは西宮北口駅で平面交差する形になった。いまでは考えられないことで、立体交差にするべきだった。しかし、当時はなんとものんびりとした時代だ。神戸本線も今津線も運行本数が少なく、列車の編成両数も短かった。輸送量に見合う投資として、これで十分という判断だったのだろう。

1979年当時の西宮北口駅の航空写真。今津線は阪急本線と平面交差している。ダイヤモンドクロッシングとして、鉄道ファンにとって名所となっていた(出典 : 国土地理院ウェブサイト。航空写真「CKK792-C8-6」を加工)

ところが、日本の経済発展や沿線住民の増加によって、2つの路線の乗客は増えていく。神戸本線も今津線も運行本数を増やしたい。しかし、列車同士の踏切となる平面交差があるので、この部分でダイヤを調節する必要がある。重要度としては神戸本線が優先された。今津線の西宮北口駅のホームは神戸本線の北側にあったため、西宮北口~宝塚間は平面交差の影響を受けない。しかし、西宮北口~今津間は神戸本線の列車の合間を縫って走らせる必要があった。通勤ラッシュの時間帯は神戸本線の列車が増えるため、今津線が平面交差を渡る余裕がなくなってしまう。

輸送量の増加は、新たな課題も作った。神戸本線の西宮北口駅は当時、上下線のホームが今津線の線路を挟む構造になっていた。神戸本線の編成両数を増やそうとしても、ホームを延伸できない。そこで今津線を分断して神戸本線のホームを設置し、今津線はその南北にホームを設置して、北側(西宮北口~宝塚間)・南側(西宮北口~今津間)の運行系統を分離して現在に至る。

阪急今津線の列車ダイヤ。西宮北口駅を境に運行間隔が異なっている。宝塚駅から門戸厄神駅で途切れる緑の線は梅田行の準急。短絡線を通過して神戸本線に乗り入れるため、西宮北口駅を通らない

当初は今津線を高架化して直通させる計画もあったようだ。しかし、橋上駅舎の上の3階部分を通すとなると勾配区間が長くなる。後に今津行のホームが2階に設置されており、直通化構想はなくなったように見える。

この状態で完成というなら、西宮北口~宝塚間は西宝線の名前を復活させ、西宮北口~今津間を今津線としたほうがわかりやすい気がするけれど、利用者の皆さんが乗り間違えたり、困ったりという苦情がないというなら、大きなお世話かもしれない。いや、むしろ阪急電鉄は、いつか今津線を立体交差させて、直通運転を復活させるつもりかも!?