私たちの国や文化はどのように成り立っているか。それが歴史を学ぶ理由のひとつであり、歴史の手がかりは大切に扱われる。しかし、その歴史の中には考古学が発達しない時代もあった。たとえば奈良時代の宮城、平城宮の敷地に近鉄奈良線の線路が横たわっている。平城宮は世界遺産であり、国の特別史跡にも指定されている。その敷地に近代的な鉄道路線。どうしてこうなった……。

平城宮の敷地を横切る近鉄奈良線の線路(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービスより引用)

平城宮は奈良時代の政府があったところ。奈良時代は奈良の平城京に都があった時代を意味する。平城宮は平城京の中心だ。飛鳥時代に大和国(奈良県)の飛鳥にあった都を、710年に元明天皇が平城京に移した。飛鳥時代末期に大宝律令が定められ、天皇の下、貴族や役人による中央集権支配体制が始まった。奈良時代は国家の形を整備した集大成として都を移し、律令制政治が確立した時代だ。

平城宮は784年に桓武天皇が長岡京に遷都するまで政治の中心だった。長岡京の役割は約10年で終わり、794年に平安京に遷都される。奈良時代は710年から794年まで。平城宮はこのうちの74年間で日本の中心だった。国の特別史跡にふさわしい場所だ。

一方、近鉄奈良線は1914(大正3)年に大阪電気軌道の路線として開業した。大阪電気軌道は近鉄の前身となる会社だ。それまで、大阪と奈良を結ぶ鉄道路線として、国有化された関西本線があった。片町線も木津駅で関西本線に接続し、奈良に通じる経路だった。関西本線は生駒山地の南側、片町線は生駒山地の北側で、急勾配を避けるルートだった。

これに対し、大阪電気軌道奈良線は、電車を前提とした勾配性能に合わせて、生駒山を長大トンネルで貫く経路で建設された。ライバルよりも早く大阪~奈良間を結び、生駒山の観光客も取り込む戦略だった。したがって、平坦な区間も限りなく直線に近い経路となっている。その途中に平城宮跡があった。

近鉄奈良線と関連路線略図

しかし、鉄道会社を責めてはいけない。単純に「スピード競争のために遺跡に線路を敷いちゃった」という話ではないからだ。平城宮は平安遷都以降に放置され、朽ち果てて農地になってしまったという。そこに大阪電気軌道が線路を建設した。ここに落ち度はない。建設前の1907(明治40)年、建築史学者の関野貞が遺構の一部を発見して新聞に発表したけれど、全体の把握ができておらず、世論は醸成できなかった。

ようやく平城宮が認知され、保存運動が起きたとき、すでに奈良線は開通していた。平城宮跡が国の史跡に指定されたけれども、それは奈良線の開通から8年後、1922(大正11)年だった。平城宮の範囲の特定は1960(昭和35)年で、奈良国立文化財研究所の発掘調査によって明らかになった。平城宮の保存への関心が高まり、近鉄による車両基地建設の計画や国道バイパス建設の計画に対しては、さすがに反対運動が起きた。近鉄の車両基地は予定地を変更し、現在の西大寺検車区になっている。

奈良県は平城宮跡の近鉄奈良線を移設させたい考えだ。奈良県知事は1月18日の定例会見で、すでに移設に向けた検討案の絞り込みを開始したと表明した。2010年にも県の基本計画として近鉄奈良線の移設は盛り込まれていたけれども、知事としては平城宮からの線路の移設だけではなく、大和西大寺駅と周辺の立体交差化も合わせて実施したいという。

大和西大寺駅は近鉄奈良線が通り、京都線と橿原線が接続する駅だ。京都線と橿原線は直通運転しており、奈良線とは平面交差の関係にある。京都線から奈良線への直通もあるなど、運行は複雑だ。そして、大和西大寺駅の西側の踏切は「開かずの踏切」となっていて、渋滞解消が懸案となっている。

立体交差化について、地下化は地下水の関係で困難であるうえ、平城宮地下は遺構の木管を傷つけるおそれがある。大和西大寺駅を3階建てにして、奈良線は平城京の南側の大宮通りへ高架で移設する案が良いのではないか、と知事は語っていた。しかし、市民からは「古代と近代が融合する現在の眺めがおもしろいのではないか」「車窓から平城宮の建物を観たい」という声も多いという。

一時は奈良線の大和西大寺~近鉄奈良間を廃止し、バスやLRTに付け替える案も提案されていたなど、最良の案の絞り込みはまだ時間がかかりそうだ。知事会見では「案の絞り込みに1~2年、地域の調査と合意形成に2~3年を要し、最短で着工まで5年。工期も最短5年としても、合わせて10年以上かかる」との見通しが語られた。「しかし、いまやらなければ、30年、50年後もこのまま」と、実現への強い意志を示した。

どうしてこうなった……という知識はおもしろいけれど、原因を責めても仕方ない。これからどうするかが大切といえそうだ