日本の鉄道模型愛好家として有名な原信太郎氏が7月4日に亡くなった。享年95。老衰だという。元コクヨの専務取締役で関連会社社長も務め、退職時はコクヨの相談役だった。
原信太郎氏は1919(大正8)年に東京で生まれ、3歳から鉄道趣味に目覚め、6歳で鉄道模型車両を自作。海外の鉄道を知るために語学を学んで見聞を広め、鉄道がきっかけで工業技術を極め、多数の特許を取得し、そのすべてのコクヨに寄付して退職した。その生涯で延べ380カ国を訪問し、鉄道模型車両は約6,000両を所蔵。しかもそのほとんどが自作だったという。
その原信太郎氏のコレクションの一部が、横浜駅近くの「原鉄道模型博物館」で公開されている。同館は横浜三井ビルディングの2階にあり、ビルの1階に鉄道模型の「天賞堂」が入店している。ミュージアムショップのような位置にあり、博物館と合わせて立ち寄りたい店舗だ。高級なHOゲージの列車セットにため息が出るけれど、近年は鉄道模型普及のため、比較的手頃な価格でZゲージにも進出している。
鉄道ファンにとって、天賞堂といえば鉄道模型の老舗だ。1949(昭和24)年から製作・販売している。本店は東京・銀座にあり、店舗は地下1階・地上4階。このうち2階から4階までが鉄道模型の売場である。では、地下1階と地上1階は何かというと、宝飾品と高級時計の売場だ。地下1階は天賞堂オリジナルや他社ブランドの時計、地上1階は天賞堂オリジナルデザインのジュエリーを販売している。
じつは、天賞堂の歴史は宝飾品のほうが長い。1891(明治24)年から日本で初めてダイヤモンドなど高級宝石の輸入販売を始めている。多くの女性にとって、天賞堂は宝飾品の店である。いや、一般的にも宝飾品店として認知されているだろう。
宝飾品の製作技術を鉄道模型に応用した
天賞堂の創業は1879(明治12)年。当初は印鑑屋で、2年後に貴金属品の販売を始め、その後、スイスや米国の時計を輸入販売。宝石類の販売開始は創業から12年目にあたる。鉄道模型はずっと後、創業から70年目。それでも現在まで65年の歴史を持っている。
なぜ宝飾品店の天賞堂が鉄道模型を始めたか? その理由は意外と単純で、当時の社長が鉄道ファンだったからだという。しかし、「鉄道好きな社長の思いつき」だけでうまくいくほど世間は甘くない。そこには、宝石を目的に訪れた奥様の横で、手持ち無沙汰に時間を過ごす旦那様の存在もあったに違いない。そして、同社がまったく異分野の鉄道模型で成功した理由は、宝飾品との意外な共通点だった。
天賞堂の鉄道模型が評判になった理由は、その品質の高さ、造形の緻密さだった。じつはここに、「天賞堂だからできる」という要素があった。鉄道模型を作るにあたり、指輪やネックレス、ブローチなど、宝石を組み込む台座の金属加工技術を使ったからだ。
宝飾品製作の技術として、ロストワックス鋳造法がある。まずは蝋燭の原料でもあるロウ(ワックス)で原型を作る。その原型を砂や石膏で囲んで鋳型を作り、原型を取り除くと空間ができる。そこに熱した流体の金属を流し込む。金属が冷えて固まったら、鋳型を取り外す。最後にバリを取って磨き上げれば、複雑な造形や模様のある金属製品ができあがる。
鋳造というと、エンジンブロックやホイールなど大型の金属加工品を思い浮かべるけれど、実際には硬貨などの小さくて緻密な造形にも利用されている。この製法を鉄道模型の製作に応用した。天賞堂の鉄道模型の品質には、当世一流の宝飾品の職人たちが関わっていた。
鉄道模型を製造販売したところ、在日米軍の将校たちの目にとまり、海外で評判が広がっていったそうだ。これをきっかけに、天賞堂は鉄道模型のブランドとしても地位を確立していく。現在のようにプラスチック製のNゲージが普及する前、「鉄道模型は走る宝石」などといわれた。それは「高額だから」だけではなく、「宝飾品店の天賞堂が扱っていたから」ともいえそうだ。