この連載では、2020年の東京、これからの都市と生活についての記事を「PLANETSチャンネル」から抜粋してご紹介しています。"東京2020"がテーマの文化批評誌『PLANETS vol.9』(編集長: 宇野常寛)は今冬発売予定。

「広い意味での日本の設計図が問われている」と語る國分功一郎氏。話題は都市開発からアイドルまで、途中からは対談のようになった國分功一郎氏(と濱野智史氏)のインタビューをお届けします。【聞き手・構成: 立石浩史+中野慧】

國分功一郎(こくぶん・こういちろう) 1974年生まれ。哲学者。高崎経済大学経済学部准教授。専門は17世紀のヨーロッパ哲学、現代フランス哲学。また、哲学、倫理学を道具に「現代社会をどう生きるか」を「楽しく真剣に」思考する。著書に『暇と退屈の倫理学』(朝日出版)、PLANETSメルマガでの人気コーナーを書籍化した『哲学の先生と人生の話をしよう』(朝日新聞出版)、自らが積極的に関わった小平市の住民運動について書かれた『来るべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)などがある。

日本はオリンピック開催地決定で大きな課題を背負った

――2020年に開かれる東京オリンピックについて、いま國分先生はどんなことを考えているのでしょうか?

國分 宇野さんに誘われたからこの『PLANETS vol.9 東京2020(仮)』企画に参加しているんだけど、俺はスポーツを見ないし、基本的にオリンピックには関心がありません(笑)。でも、日本の場合は震災もあったし、これからどうしていくかという「広い意味の設計」を考えないといけない時期にあると思う。こういう時にオリンピックの開催地になったというのは、歓迎するというよりも、「来てしまった」という感じで捉えていて、日本は大きな課題を背負わされたと思う。

たとえば競技場の問題にしてもそうだよね。1年ほどの短期間のコンペで決めて、ドデカイものを作ることになって、すごい批判がある。あの競技場問題を具体的にどうすべきかということはともかく、「広い意味での日本の設計図」をどうしていくのかが問われている。だから、開催が決まってしまった以上は俺も発言していかなくてはならないと思っている。

今回のことをきっかけに、宇野さんたちと一緒にオリンピックの歴史を勉強したんだけど、いろいろなことが分かってよかった。オリンピックの機会を使って都市開発をするという話は過去にいくつかあって、そのなかでも2012年のロンドンの事例のように、いくつかスマートなものがあったことが分かった。「オリンピックだから東京はこうなる」みたいな簡単なことにはならないと思う。理想としては日本が新しいモデルを出すべきだけど、いつものようにどうせ日本にはそんなことは無理だから(笑)、せめて今までのパターンくらいは勉強してやってほしいなとは思います。

俺は個人的に、住民投票で関わっていた小平市の道路にどのような影響があるのかについて最も関心がある。既存の道路計画が遅滞するとも推進されるともどちらの話も聞いている。詳細はまだ不明だけど、とにかくオリンピックを口実によくわからない大開発をするのはやめてほしい。そういうことを避けるためにも、オリンピックの歴史を勉強するのはものすごく大切だと思う。今回のPLANETSの企画が、オリンピックの歴史の勉強になる教科書的なものを作れるとすごくいいですよ。

――オリンピックの歴史のなかで、國分先生が特に印象的だったエピソードは何かありますか?

國分 「新しい場所に会場を作ってその後も利用できる施設にしよう」という話はオリンピック施設を作るときにはいつも課題になるわけだけど、結局失敗したという例がいくつもあった。一方で、先ほども触れたロンドンではかなりスマートな形で、のちのちまで使える施設にすることに成功していたりする。

なんだかんだ言って、舛添が都知事に就任してから、一体何をやっているかがあんまり見えないよね。だから彼が自分の格好をつける機会として、このオリンピックの計画をいい感じに先導していけばいいと思う。きちんとオリンピックの歴史を勉強してやってほしい。彼にそれだけの力量があるかが問われているよね。

娯楽が多い国で、楽しみ方を知らない日本人

――先日もサッカーのW杯が開催されましたが、場外では渋谷のスクランブル交差点での一部の若者たちの行動が問題になりました。オリンピックにおいても、似たような状況が出てくると思うのですが、このような社会状況を、「退屈」や「気晴らし」をテーマとした『暇と退屈の倫理学』の著者である國分先生はどうみていますか。

國分 負けた時に騒いでいる若者がいたけれど、俺の友人が「あいつらは愛国心が足りない」って言ってた。そう思うよ(笑)。まあ、彼らは普段から騒いでないんじゃないかな。普段から騒いでいたらあんなことでは騒がない。だから普段からもっと騒いだらいいと思う。今の学生はあまり飲みに行かないでしょ? 俺も学生を飲みに誘うんだけど、もっと普段から酒を飲んで騒ぐということがあってもいいんじゃないかと思う。今の若い子はなぜあんなに騒がないのかな?

――うーん、なぜなんでしょう……。

(ここで濱野さんがインタビューに乱入)

濱野 アイドルの現場は最高っすよ! 普段から、というか毎日騒いでるもん。

國分 そうだよね。一人ひとりがもっとこういう気晴らしの手段を持っているべきだし、酒宴というのは騒いだりするのをうまくできないような人のために人類が発見してきたものじゃん。だから、繰り返しになってしまうけど、普段からもっと騒いだらいいと思う。

ちょうど4年前にオランダに行ったら、サッカーのオランダ代表が決勝でスペインに負けて帰って来たときだったんですね。そのころのアムステルダムはまるで革命の後のようだった(笑)。皆、町中に出て飲んで騒いでいましたね。でも日本とは全然違う雰囲気なんだよ。とにかく日本はこんなに娯楽があるのに、それを使いこなせていない。

濱野 逆に娯楽が多すぎるとも言えますよね。皆がバラバラのものを消費している。で、たしかに娯楽は多いけど、自意識のラベルの張り合いが凄すぎて、オチオチ何にもハマれないみたいな状況がある。もっと色々とハマって自己研鑽しろよ! と思うのですが。本当につまらない状況ですよね。

「アイロニカルな没入」などと言っているからハマれない

國分 「アイロニカルな没入」って言い方がありますよね。ああいうことを指摘しているのはダメだと思う。それを指摘していったい何になるのか。パスカルが一番馬鹿にしている人間はそういうことを言う人なんですよ。パスカルは「〈人間は大してやりたくもないことをやって暇を潰して生きている〉というのは真理だが、それを偉そうな顔をして指摘して暇を潰している馬鹿がいる」と言っている。

濱野 そうですよね。「アイロニカルな没入」とか言っていたら何にもハマれない。人は昔から変わってないですね。

國分 だからとにかく「どうやったら皆が楽しくなるのか」を考えるべきでしょ。

濱野 でも、古参のアイドルヲタほど、自意識こじらせてて「アイロニカルな没入、乙」「新規のお前ら、アイドルなんかに本気になってバーカ」みたいな感じのこと言うんですよ。これは本当にクソだと思います! 本気になって何が悪いんだ!

今、「楽しい」について考える哲学が必要

國分 哲学はもっと「楽しい」について考えないといけないと思う。哲学は元来「美しい」については一生懸命考えてきたけど、楽しみについてはあまり考えてこなかった。

濱野 僕の大学院時代からの友人でゲーム研究者の井上明人くん(『ゲーミフィケーション』著者)が言っていたのは、楽しみについての哲学的基礎が薄いということです。それこそロジェ・カイヨワとかからになる。なぜこんなにも「楽しさ」が研究されていないのか?

國分 「楽しい」ということがレベルの低いことだと思われているからじゃないかな? 俺に言わせれば楽しめる人間こそレベルが高くて、賢者なんだと思う。スピノザも『エチカ』で「もろもろの物を利用してそれをできるかぎり楽しむことは賢者にふさわしい」と言っている。こういうことはなかなか理解されていないけれど、きわめて大きな問題だと思う。結局、みんな楽しめていないからそれを外側から与えてもらいたくなっちゃったり、「アイロニカルな没入」とかを指摘して暇を潰してしまっている。

濱野 人類が生存以外の部分で楽しめるようになったのは、アテネの自由市民以来のことで歴史が浅い。そういう歴史もあって楽しみ方を共有するということがあまり進んでいないのではないでしょうか。それと、「美」についての言説の方が、「楽しみ」に比べて嫉妬されにくいし、流通しやすいということもあると思いますね。

國分 「楽しさの哲学」が貧しくて、「美の哲学」がこれほどまでに延々と語られてきたのは、「美」は普遍だけど、「楽しさ」や「快楽」は個人的で普遍性がないことが理由の一つだと思う。人が何を楽しいと感じるのかは、当たり前だけど、個人的なもの。ここに大きな違いがある。カントが「美しいと快適は違う」と言っているけど、その通りなんだよね。

濱野 チクセントミハイというアメリカの心理学者が〈フロー経験〉という議論をしていて、問題意識はハイデガーや國分さんと近いですよね。彼は「人間は没入しているとき、なぜ時間の流れを圧倒的に早く感じているのか?」ということを研究した。ロッククライマーや絵描きの人の集中状態を調べた結果、さきほどの〈フロー経験〉――時間の流れが早まって、学習能力が高まっている状態――を発見したんですね。究極の楽しい状態というものを言語化した一つだと思います。彼のいいところは哲学や思想にも通じていて、「フロー経験がどう生まれるかを分析すれば、ハイデガー的な二ヒリズムから脱却できるはず」と言ったところなんですね。この話は「楽しみの哲学」を考えるに当たって参考になると思います。

國分 やはり、楽しさというものはもっと考えられるべきだし、俺も考えたいと思っている。楽しさを知らないと「皆が熱狂しているから自分も熱狂する」というようなことだけになってしまう。

濱野 集合沸騰的に盛り上がるというのと、楽しさは違うんですよね。アイドル現場がいいのは、それぞれ楽しみ方が違うところです。皆騒いでるんですけど、よく見るとそれぞれ違ったことをしている。

國分 なるほど、そうなんだね。楽しむということを通じて自分を確立するということが一番大切なことだし理想だと思う。楽しむということは自己陶冶につながっているはずなんだよね。他の人に合わせてわーっと盛り上がるときって、逆に孤独になるんじゃないのかな?

――オリンピックというイベントは他の人たちとわーっと盛り上がるような色が強いですよね。

國分 確かにそうだけど、たとえばフィギュアスケートを観て端的に「すごいな」と思ったりはするわけじゃない。すごい人たちが集まって技を競っているわけだから、やっぱり感動するということはあると思うよ。それを知識人ぶって「こんなのは国威発揚のためのプロパガンダだ!」というふうに単純に片付けないで、スポーツそのものを楽しめばいいと思う。

ただ、先ほどから言っているように、みんなに合わせて自分も盛り上がるというような態度ではなく、自分で楽しめるようになった方がいいよね。そのために哲学ができることは「楽しさとはなんなのか?」ということを掘って考えて行くこと。「美しさ」はカントくらいでやりつくしているから(笑)、これからはそういう部分を考えていきたいよね。(了)

左: 濱野智史氏、右: 國分功一郎氏