サイエンスライター・森山和道氏が、ITビジネス書、科学技術読み物、自然科学書など様々な理系書籍の中から、仕事や人生の幅を広げる「身になる」本を取り上げて解説する「森山和道の身になる理系書評」。今回は、河出書房新社から発刊されている『なぜ経済予測は間違えるのか――科学で問い直す経済学』(デイヴィッド・オレル 著/ 松浦俊輔 訳)を紹介する。

経済理論の「神話」を科学で問い直した『なぜ経済予測は間違えるのか』

『なぜ経済予測は間違えるのか――科学で問い直す経済学』価格:2,520円

経済学は人間の行動を対象にした科学の一種ということになっている。数理モデルは一定の前提に基づいているが、『なぜ経済予測は間違えるのか』は、経済学におけるその前提は現実とはまったくかけ離れており、その結論は誤解を招きやすいデフォルメされたものでしかなく、経済学は科学というよりは「歴史のある時期に特有のイデオロギー」に過ぎない、経済学は表面的に科学らしいだけの「科学もどき」であると切って捨てる。

市場の力という「見えざる手」なるものは実際には絶えず目に見えて震えており、経済は絶えず変化していて予測できない。リスクは例外的なことが起きないかぎり管理出来るとされているが、極端な事象は理論がいうほど稀な出来事ではない。つまり金融機関のリスクモデルは危険な前提に基づいている。

エコノミストは、競争的市場は基本的には公平だという。だが「根底には平等がある」という前提は本当に正しいのか。市場は実際には公平で均衡するのではない。「金持ちはさらに金持ちになっていく」ことは誰でも知っている。富を平等に分配するはずの「見えざる手」は実際には多くの人の足を引っ張る手でもある。

人は論理的にも合理的にも振るまわないし、いわゆる「ホモ・エコノミクス(合理的経済人)」は、ただの神話でしかない。古典的な経済理論は人間の行動の数理モデルというよりは、「神々の経済」だという。だが主流の経済学は、なぜか「人は合理的に行動する」という考えにあまりにも長い間しがみついてきた。

未来の予測への願望は、それを制御したいという願望と表裏一体だ。しかし経済的なモデルは金融システムの破綻などを予測できない。それはエージェントベースのモデルでも変わらない。

さらに著者はサブプライム危機のような事件、リスクの高い行動に加担する人が多かったのは、金融業界が男性に支配されているからではないかという。確かにその手の会社には男性のほうが多く、女性より男性のほうがリスクをとる行動をしやすい傾向があるようだ。差はちょっとしたものかもしれないが、その差が市場を通じて集まり、強調されてしまった可能性はあるかもしれない。

また、「経済成長」そのものも信仰でしかなく、それは我々がより大きな生態系の一部であるという事実と衝突しつつあるという。天然資源は無限ではないし、生態系は搾取の対象ではない。人間の経済は外部の地球環境、生命圏の一部だ。だが新古典派経済学はそのことを無視している。

そして何より、金は大事ではあるものの、幸福度は経済的な豊かさと正比例の関係にあるわけではない。残念ながら自由市場は快楽を最大化する装置ではないし、幸福に値札はつけられない。しかしながら、罰則や罰金のような形で、一度、社会的規範を市場的規範にしてしまうと、人はなかなか簡単に社会的規範に戻ることができない。人は簡単に市場の規範を受け入れ、そこに馴染むことができる。歓迎することすら多い。しかしながらこのことは、道徳的、社会的規範を市場化することの決断には、極めて慎重にならなければならないことを意味している。

市場経済は個人の効用を最大化するものではないらしい。しかしながらこの間違った前提と経済理論における神話は、経済の動き方の理解を妨げ続けていると著者は言う。だが新しい考え方は様々なところから芽を出し始めており、それらはより持続可能な経済形成のための道具として有望だとしている。だが、それらのなかにも間違いなく「イデオロギー」に過ぎないものが混ざっているだろう。それを見分ける目を我々は各自で持たなければならない。完璧なモデルができる日は未来永劫、来ないかもしれないが。

著者プロフィール:森山和道

脳科学、ロボティクス、インタフェースデザイン分野を中心に、科学技術分野全般を対象に取材執筆を行うフリーランスのサイエンスライター。研究者インタビューを得意とする。メールマガジン「サイエンス・メール」「ポピュラー・サイエンス・ノード」編集発行人。共著書に『クマムシを飼うには 博物学から始めるクマムシ研究』(鈴木忠、森山和道 / 地人書館)
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