前回に続き、今回も鶴見線を走った首都圏最後の72系(73形)を紹介します。じつはこの車両の鶴見線での活躍は、たった8年という短いものでした。
鶴見線は72系が入線するまで、戦前生まれの17m旧型国電の独壇場で、2~4両編成で活躍していました。その理由は、鶴見線の前身・鶴見臨港鉄道時代から存在した急曲線や駅施設に関係していて、「車体長20m級の車両は入線できない」とされていたからです。
しかし、戦前生まれの17m車の老朽化が進行したことから、1972年、当時首都圏で余剰となっていた車体長20mの72系に置き換えられることになりました。そこで問題となったのが、20m車の入線を拒んできた急曲線や駅施設です。
この問題を解決するため、国道駅のホームを削るなどの改修工事を実施。入線に関する問題がクリアされました。ただし、大川支線の分岐駅・武蔵白石駅のホームは急曲線上にあり、改修が不可能だったため、17m車のクモハ12が残されることになりました。
72系3両編成による運転が始まった当初、先頭車のクモハ73とクハ79に、車齢の古い(製造年が古い)3段窓の車両が多く配置されていました。
その後、1978年に南武線から72系が引退すると、鶴見線の先頭車の顔ぶれがガラリと変わりました。近代化改造されたクモハ73 500番台と、アコモ(「アコモデーション」の略)改良工事でアルミサッシ2段窓化されたクモハ73 600番台が、中原電車区より大量に転属し、クモハ73の3段窓車のほとんどを置き換えてしまいました。
クハ79もまた、全金属製の920番台や300番台を中原電車区および津田沼電車区から転属させ、それまでの車両を置き換えるという、72系同士の体質改善が行われました。
その72系も1980年に鶴見線から引退し、101系に置き換えられます。101系もまた、後に103系に置き換えられました。一方、大川支線のクモハ12は、JRになってからも奇跡的に生き残りましたが、1996年に武蔵白石駅のホームが撤去され、103系の入線が可能になるのと同時に引退しました。
いまや103系も鶴見線から引退。中間車改造の先頭車を持つ205系3両編成が活躍中です。
今回紹介した「鉄道懐古写真」
撮影時期 | 写真の説明 | |
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写真1 | 1979年10月 | 扇町駅に入線するクモハ73 289。木枠の前面窓を持つ原型車が、 この時期まで生き残っていたのは驚きだった |
写真2 | 大川支線で活躍したクモハ12。1996年までこの姿が見られた | |
写真3 | 大川駅に停車中のクモハ12 | |
写真4 | 1978年1月 | 72系を入線させるため、ホームを削った国道駅。私鉄時代の雰囲気を そのまま残している |
写真5 | 1977年3月 | 浜川崎駅でクモハ73が並ぶ。手前はDT15(台車)を履いたクモハ73 325 |
写真6 | 1977年5月 | 浜川崎駅で前面窓が木枠のクハ79原型車が並ぶ。左へ分岐するレールは、 貨物ヤードに発着する列車が走行した |
写真7 | 1979年2月12日 | 浅野駅で鶴見線の本線から分岐し、海芝浦駅へ向かう。 先頭はクモハ73 500番台 |
写真8 | 1980年1月7日 | 弁天橋駅。海芝浦行が出発した後、通勤客が構内踏切を渡る。 電車の最後尾はクハ79 |
写真9 | 1979年11月 | 海芝浦駅。鶴見行のテールライトが、カーブの向こうへ消えていった。 最後尾はクモハ73 600番台 |
写真10 | 1979年12月2日 | 昭和~扇町間の巨大タンクの脇を走る。先頭はクハ79。 写真左手前から右奥へ、貨物線がクロスする |
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った