東京都国分寺市は、「ひかりプラザ」の新幹線資料館として使用している新幹線試験電車951形を長期保存するため、クラウドファンディング方式による資金調達を開始した。募集期間は2020年12月18日まで。目標額は定めず、集まった寄附金は車体の再塗装、内部床等の張替え、座席の交換などに使用する。

  • 「ひかりプラザ」(国分寺市光町)で保存・展示されている新幹線試験電車951形

「ひかりプラザ」1階の社会教育課にて受け付け、希望者は申込書に記入の上、持参または郵送にて申し込む。9月18日からは、ふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」でも受け付ける予定。1万円以上の寄附で銘板に記名できる。銘板は新幹線資料館の隣接敷地内に設置するとのこと。

国分寺市は「新幹線リフレッシュ事業におけるクラウドファンディング実施要領」の中で、「市長は、銘板を設置したときは、銘板設置完了通知により寄附者に通知する」(第7条)、「銘板に関する権利は市に帰属し、(中略)その耐用年数を5年とする」(第8条)、「補修を行う条件は、原則、耐用年数内で破損等があったときとする」(第9条)、「撤去を行う条件は、原則、耐用年数を超過し、著しい老朽化が見られたときとする」(第9条2)と定めている。

951形は過去2回、塗替えを行ってきたという。現在のように屋根のない状態だと、5年後にはまた同様のリフレッシュ事業が必要になるかもしれない。屋根を設置できるほどの寄附が集まることを期待したい。

■2両編成で落成、最高速度記録も残した951形

新幹線試験電車951形は1969(昭和44)年3月に製造された。東海道新幹線で活躍した0系の後継車を開発するための高速試験車両である。1972年に開業した山陽新幹線新大阪~岡山間は当初、営業最高速度250km/hを目標としていた。951形は先頭車両を背中合わせに連結した2両編成で、新大阪方の車両「951-1」は川崎車輌(現・川崎重工業)、東京方の車両「951-2」は日本車輌製造が製造した。

951形の試験走行は1969年から米原~新大阪間などで行われ、1970年から速度向上試験に着手。1972年、開業前の山陽新幹線姫路~西明石間(上り線)にて、最高速度286km/hを達成した。これは当時の国内鉄道車両における最高速度記録となった。その後は後継となる961形が使われたことなどもあり、951形は1980年に廃車となっている。

廃車後、国鉄の鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)に引き取られ、東京都国分寺市にやってきたが、2両の運命は異なった。「951-2」は試験を継続し、2008年に解体されたという。一方、「951-1」は1991(平成3)年に国分寺市へ寄贈され、「ひかりプラザ」で保存展示されることになった。「951-2」の解体は残念だが、解体によって金属疲労なども調べられたことだろう。

試験車として最後まで任務を全うした車両は「951-2」で、「951-1」は用済みのほうといえる。ただし、「951-1」には「国分寺市のシンボル」「高速鉄道技術史の資料」という新たな使命が与えられた。私たちは「951-1」を通じて、世界最高速の新幹線を生み出した国鉄が、さらなる高みをめざした痕跡を学べる。

■0系とは似て非なる性能を持つ

951形の外観は0系と似ている。しかし、よく見ると違いがある。951形は空気抵抗を減らすため、先頭部が0系より2m長くなった。その結果はデザインにも現れている。運転席窓の後ろに青の飾り帯があり、その下の乗務員室扉と客室扉が離れている。乗務員室扉付近の青帯の先頭方向が長い。ただし、全長は0系と同じく25mのため、先頭部が2m増えた分、客室側が短縮されている。窓は初代0系と同様、2列で1枚の広窓タイプながら、窓の数は減っている。

  • 「ひかりプラザ」の北側に展示された951形。運転席窓の後ろに青の飾り帯がある

外観でわからない部分は大きく変わった。0系の車体は鋼鉄製。一方、951形の車体はアルミ合金製となり、軽量化された。沿道からはわかりにくいが、床下機器は車体に内蔵され、吊下げではない。これは「ボディマウント構造」と言って、車体を線路近くまで大きく箱形に作り、その底面に機器を配置している。このアルミ合金製車体とボディマウント構造は、後に東北新幹線向けの車両200系で採用された。

制御装置は新幹線車両として初めてサイリスタ(半導体)を採用。モーターの定格出力は0系の185kWから250kWに増強し、ブレーキにはモーターの逆回転抵抗力を使う発電ブレーキを改良したほか、渦電流ブレーキのテストも行われた。渦電流ブレーキは台車に電磁石を搭載し、レール面に渦電流を発生させてブレーキの役目を実行するしくみ。ただし、試験結果が思わしくなかったようで、高速度試験では使われなかった。

空調関係では、冷房装置を0系の屋根上ではなく床下に設置し、重心を下げている。客室の気密を維持するため、改良型の連続換気装置(給気側と排気側にファンを設置し、強制的に車内の空気を入れ換える装置)を搭載した。0系では車内の気圧を保つため、トンネルに入る前に換気口を閉じるしくみを採用していたが、山陽新幹線はトンネルが長く、換気しない時間が長くなってしまう。そこで、日立製作所はベルト駆動型ターボファンを採用し、気圧の変化に対応できる連続換気装置を試作した。

その試験結果をもとに、日立製作所はモーターとファンを直結した高圧シロッコファンを開発し、小型化と低騒音化、気圧対応力の強化を図った。その改良型が0系の後期生産車に採用されている。山陽新幹線岡山駅以西の区間に乗り入れるすべての車両に、この装置が設置された。

■なぜ国分寺市? 「ひかりプラザ」の由来は?

東京都国分寺市が、なぜ新幹線の試験車を譲り受けたか。その理由は、国分寺市にあった国鉄の鉄道技術研究所で新幹線の基礎技術が開発されたから。「新幹線は国分寺市生まれ、新幹線は国分寺市の誇り」というわけだ。

現在、公益財団法人となっている鉄道総合技術研究所のルーツは、1907(明治40)年に設立された帝国鉄道庁調査所。新橋駅(後の汐留貨物駅)の駅構内に設置された。戦時中に鉄道技術研究所に改称され、戦後は国鉄本社の研究機関となった。

鉄道技術研究所は1959年、国立研究所本館に移転した。所在地は国分寺市だが、最寄り駅は中央線国立駅。同施設の南側は国立駅周辺も含めて国立町(当時)にあり、谷保村が町制を敷く際、国立駅が由来となって命名された。国立町は1967年に国立市となる。

その後、国鉄分割民営化によって財団法人鉄道総合技術研究所が発足し、鉄道技術研究所などの業務が引き継がれた。「ひかりプラザ」は鉄道総合技術研究所の東側、片側1車線の道路を隔てたところにある。所在地は鉄道総合技術研究所とおなじ「光町」。このあたりはかつて、「大字平兵衛新田」という地名だったが、1966(昭和41)年に町名整理と地番整理が行われ、新幹線「ひかり」号にあやかって「光町」と命名された。

光町にある公共施設だから「ひかりプラザ」。1階に新幹線の資料展示室があるものの、全館が「ひかり」号を記念した建物というわけではない。地下1階、地上5階建てで、国分寺市の教育関係の機関が入居するほか、地下1階と地上1階にはスポーツセンターとして体育施設やフィットネスルームもある。951形は屋外で新幹線資料館として使用され、車内の座席や機器の一部が撤去され、新幹線発展の歴史をパネル・模型等で紹介している。運転室も見学できる。

  • 「ひかりプラザ」の玄関付近に、新幹線リフレッシュ事業のクラウドファンディングが始まったことを案内する看板も設置

国分寺市のサイトによると、保存された951形は市民団体の主催で夏と冬に大掃除が行われるという。次回は8月29日、午前10時から10時45分まで行う予定(小雨決行)。参加希望者は現地集合で、濡れても良い服装で参加し、感染症対策でマスクを着用する必要がある。当日、新幹線資料館は10~11時に休館し、「毎年恒例のスイカ割りはありません」と添えられていた。例年とは異なる夏になったが、国分寺市民が951形を愛し、楽しんでいた様子がほのぼのと伝わってくる。