最近、いろんなところで「結婚しないの?」などと聞かれる。法事に行けば親戚のおばさまから、飲みに行けば男友達から「なんで?」みたいな。なんでじゃねーよ。結婚がひとりでできるもんなら、とうにしとるわ。したくてもできない人間に向かって、なんてかわいそうなことを聞くのだ。ちょっとは遠慮しろ。

とはいえ、別段「結婚」にこだわっているわけではない。紙切れ一枚にはんこをつくよりも、お互いがどう向き合っていくかのほうが大事で、それが問題なければ役所に承認してもらうことなど、どうだっていい。結婚していたって、浮気をする奴はいるし、伴侶をSATSUGAIしちゃう奴だっているのだ。紙切れの効力に「相手を一生敬い尊重すること」とかいうのがあればまた別だけど。

というような考え方をしているのが、おそらく、涼さんの恋人、美也だ。二人は、大学を卒業後、一緒に暮らし始める。とても仲良く幸せに暮らしているのに、いわゆる「結婚」をする気配はない。いや、涼のほうはしたがってるようだが、美也にはその気がない。その状況を不思議に思った夜梨が、彼女の姉に「どうして二人は結婚しないのかな」と聞くと、姉はこう答える。

「それはね、ある種の人には、形式はどっちでもいいことなのよ」
「実はものを考えないほうが、ことはスムーズに進みます。でもそれではつまらないなあと思っているのが、涼さんの彼女なのですね」

つまり、「適齢期になったら結婚するもの」「つきあって一緒に暮らしたら、結婚を目指すもの」と、無条件に信じて疑わなければ、相手がいるなら結婚へと駒を進めるはずだ。無条件に信じる=ものを考えない、ということ。美也曰く、今の生活が楽しくてうまくいっていて、「してないからなんぞ不都合でも?」なのだそうだ。

結婚をすることのメリットってなんだろう。「保障」ではある。別れにくいこと、法律が二人の財産や義務を守ってくれること。でも、「結婚」が法律に則った行為のひとつで、法律は、感情論では解決しないことを客観的に合理的に始末をつける方法で、法律から最も遠い、感情の最たるもの「恋愛」の結晶が結婚であるのだとすると、そこには大きな矛盾がある。果たして本当に二人の関係の中に「結婚」という制度が必要かどうかは、実はわからないのだ。

そんな結婚についての話をしながら、涼は美也にごはんをつくってもらっている。クロダイの刺身茶漬けだそうな。この人の作品は、とてもグルメな感じなのも特徴だな。だが、ストーリーの前半では、美也はぎんなんの入っていない茶碗蒸し、薬味のついていない冷や奴など、どちらかというと「料理のできない女」として描かれている。夜梨もまた同じで、生焼けのチョコケーキをバレンタインに焼いたりしている。その後、夜梨はブラウニーを上手に焼いているので、やはりお料理上手に。

これは年をとって女子たちの料理の腕が上がったともいえるが、加えて社会の変化があるだろう。女の社会進出が進むまで、女は女という性に対して非常にネガティブだった。故に少女漫画に登場する女性キャラは、「女らしさ」を否定したものが多い。男装の麗人オスカル、おてんばなキャンディ、紅緒などだ。これらのキャラは、総じて料理が下手くそ(もしくはできなそう)。つまり、身も心も「女性らしさ」を否定して、「それでもかわいいでしょ?」「それでもいいじゃない!」と世間に訴えているのだ。

こうしてあがいているうちに、90年代になり、だんだんと女という性にポジティブになり、同時に「女らしさ」の否定も薄れていく。ボインな体つきの来実や、料理上手になった『サード・ガール』の女たちだ。こうして美也や夜梨たちは、時代を経て料理上手へ……嫁のメシがまずいのは、現実社会だけとなってきたのである。
<『サード・ガール』編 FIN>