家族が認知症になったらどうしよう……そんな漠然とした不安が現実に。認知症初期の人に対する情報が乏しい中、少しずつ調べていくうちに、私が持っていた認知症のイメージは古いことを知りました。“認知症の解像度”を上げてくれる場所や人を訪ねて、認知症の現実に向き合います。
衝撃的に新しい認知症を実体化している人。それが丹野智文さんという存在です。39歳で若年性認知症と診断されて12年。丹野さんは認知症の症状を工夫で乗り越え、現在も1人で全国を飛び回り、認知症の概念を変える活動をしています。
最初に丹野さんの存在を知った時は、野球選手で例えると大谷選手のようなもので、野球を始めたからといって誰もがなれるわけではない、何か特別な才能や状況があっての奇跡なのだろうと思いました。それほど“認知症らしくない”生き方をされているのです。診断されて12年経っても1人で公共機関を駆使して活動しているというだけで、多くの方は驚くのではないでしょうか。
でもお話を聞いてみると、決して特別ではなく、本人と周囲が考え方を少し変えるだけで丹野さんのような認知症ライフを生きることができるのではないかと思えました。
1974年生まれ。宮城の認知症をともに考える会「おれんじドア」代表。ネッツトヨタ仙台のトップセールスマンだった39歳の時に若年性アルツハイマー型認知症と診断される。現在も同社に所属しながら認知症当事者として全国を1人で飛び回り、講演やピアサポートなど精力的に活動。著書に「丹野智文 笑顔で生きる―認知症とともに―」(文芸春秋)、「認知症の私から見える社会」(講談社)など。丹野さんの実話を元に、映画「オレンジ・ランプ」が製作されている。
“2年で寝たきり、10年で亡くなる”という情報に衝撃を受けた
――まずは丹野さんが認知症と診断されて、前向きに活動できるようになるまでの経歴をお聞かせください。
私が若年性認知症だと診断されたのは今から12年前、39歳の時でした。その5年ぐらい前から、もの忘れが多くなっていました。初めはパソコンの周りに付箋を貼っていたのが、これではダメだと思ってノートに書くようになった。あきらかにおかしいと思ったのは、人の顔が認識できないことが多くなったこと。営業なのに、知っているお客さんが来ていると言われても、どの人なのかわからない。それで39歳の、忘れもしないクリスマスの日に病院に行ったところ、すぐに大きな病院に行くように言われ、検査入院することになりました。医師も「認知症だとは思うけど、30代で認知症の人を診断したことがない」ということで、さらに大学病院に1ヶ月入院した結果、認知症と診断されました。
――30代で認知症というのは受け入れがたいですよね。
当時は認知症というものをよく知らず、ネットで調べると、“若年性認知症は2年で寝たきり、10年で亡くなる”とありました。「あと2年で寝たきりなのか……。小学校5年生と中学校1年生の娘がいるのに、私の生活はどうなるんだ」と思いましたね。でも認知症初期の人のための情報がない。病院でも、介護保険の話ばかりされる。どうしていけばいいのかわからなかった時に見つけたのが、「認知症の人と家族の会」。本人が行くところではないけど、そこに行けば誰かが妻を助けてくれるのではと思って行き始めたんですね。
その1年後に、ある当事者との出会いがありました。65歳ぐらいで、「7年前に認知症になった」と言う。でもいつも元気で笑顔だから信じられなくて、本当に認知症なのかなと思って、話を聞いてみたんです。すると、「最初は家に引きこもっていたんだけど、友達や周囲の人のおかげで今はこうやって元気なんだよ」と。彼は、他の重度の当事者を支えていたんです。お風呂に行った時は他の人の服を脱がせたり、体を洗ったりしてあげていた。それを見て、「私のほうが若いのに、どうしてこんなにウジウジしてるんだろう」と思って。私もこんなふうに生きてみたいと思ったことが、前向きになるきっかけでした。
――そこから講演を行うまで活動的になられたんですか。
家族の会の人から、認知症の講演会があるから5分でも10分でもいいから話してみないかと誘われ、そこで自分がどれだけつらかったか、家族の会と出会ってどれだけ幸せだったかという話をボロボロ泣きながら話したのが始まりです。その日の帰りに、講演で話したことは大切なことだと思って紙に書きとめました。人前で話をすることで、自分の考えが整理できた。
失敗をすることで工夫を生み出し、1人通勤を可能に。
――丹野さんは診断後も仕事を続けていますが、そこでいろいろな工夫を生み出されたんですよね。自分が認知症であることを書いたカードを見せながら通勤されていたとか。
カードは今も使っています。通勤するためには、1人で電車に乗らなければならない。妻が「送り迎えする」と言ってくれたけど、それは違うと思って。でも、自分が降りる駅を忘れてしまうし、どこで降りればいいのかわからなくなる。30代くらいのスーツを着た男性に「すみません、会社の場所を忘れました」と尋ねたときは、馬鹿にしてるのかという顔をされました。次に女性に聞いたら「新手のナンパですか」と言われた。それで、自分でこのカードを作ったんです。カードを見せるようにしたら、みんな優しく対応してくれました。
――知らない人に聞くこと自体、怖くなかったですか?
怖かったですよ。「病気をオープンにしたら悪い人に騙されない?」と言う人もいますが、そんなことはありません。例えばあるとき、ヘッドホンをした学生さんの肩をトントンして、「ごめんね、こういう病気で」とカードを見せて降りる駅を聞いたことがあります。彼は「あと3駅ですよ」と言って、私が降りる駅までヘッドホンを外していた。駅について「ここですよ」と教えてくれてから、またヘッドホンをした。そんな経験が私の中にいっぱいあります。
――私の父は一度迷子になったのがトラウマになったのか、1人で外出しようとはしなくなりました。
私も何度も失敗しています。でも、成功体験も重ねています。今日も(取材場所に)Googleマップを見ながら私は1人で来たでしょう。何階かわからないから電話をして聞いてたどり着いた、そのことが自信になるんです。失敗するから工夫をして、工夫をするから成功体験が生まれる。もし家族に送り迎えをしてもらって失敗しないでいたら、工夫も成功体験も生まれず、自信を取り戻せません。 家族も最初は心配していましたが、ある夜、私が道に迷って帰りが遅くなった時に、「ちょっと道に迷ってた」と言ったら、妻は「あ、そう」とだけ。認知症当事者は1回でも道に迷ったら「出かけないで」と言われるのに、なんで私は自由なのかと聞くと、「心配はするけど、信用してる」と。その言葉がすごく大きくて、じゃあ私も頑張ってみようと思う。そういう積み重ねです。ダメダメ言われたら嫌ですよね。
“徘徊”は何もわからなくなっての行動ではなく、当事者の意志がある!?
――信用はしているつもりですけど、世間的に迷子と徘徊の違いもあいまいで、徘徊で行方不明になって亡くなるというニュースのインパクトが強くて、1人で外出させるのは怖いと思ってしまいます。
それに関しては私もいろいろ思うことがあります。今までたくさんの当事者と話してきました。徘徊して戻ってきた人に、どうして家を出ていったのかを聞くと、「家に居場所がない。死にたい」と言う。だから、暗いところ暗いところに行くんです。道に迷ったら、ふつうは明るいところや広いところに行くでしょう。
――徘徊は本人の意志があってのことなのでしょうか?
そういう場合もあると思います。徘徊に関する資料を見ると、1人暮らしの場合、道に迷う人はたくさんいるけれど、亡くなる方は数パーセント。家族がいても、家が居場所じゃなくなるから徘徊をするんですね。例えば料理には切る、煮る、味付けなどの工程があるのに、一度味付けを失敗しただけで、料理すること自体を止められる。切ったり煮たりはできるのに、「自分でやったほうが早いから座っていて」と言われる。電球を取り替えようと脚立を持ってきた瞬間に、「危ないからやめて」と叱られる。家族に悪気はなくても、本人にとっては役割を全部奪われてしまうということ。それでは家に居場所がなくなるでしょう。
――認知症には物忘れや人の顔がわからなくなる中核症状と、徘徊や怒りっぽくなる、うつなどの周辺症状がありますが、周辺症状は心が健康であれば出ないと思いますか?
出ないと思いますよ。「怒りっぽくなる」といわれるけど、財布やケータイを取り上げられて、1人で出かけるのを禁止されたら、怒ったり落ち込んだりしますよね。自分で何も決められない、迷惑をかけているという気持ちも大きい。だからすべてを諦める、諦めたらうつ状態になる。ものすごく不安な時は、街を歩いていても何にも見えてない。ただずっと歩いているだけ。私も、デパートの中を2時間ぐらいずっと歩いて何にもしないで帰ったこともありますよ。それが続くと、迷った時に誰かに道を聞く、タクシーに乗るという考え方ができなくなる。逆に、どんなに進行しても、財布を持っていきいきと過ごしている人が徘徊して亡くなったという話は聞いたことがありません。
――家族が少しだけ意識を変えれば、防ぐことができる可能性が高いということですね。丹野さんの現状の症状は、もの忘れと、人の顔がわからなくなるのと、道に迷うことだけですか?
そう。それだけ。他の当事者もそうだと思いますよ。
――それだけだと聞くと、工夫でどうにかなりそうに思えます。それなのに、無気力になってしまうのは防げるはずの周辺症状ということですか。
うつ状態は防げるはずです。何もかも取り上げたり禁止したりしないことと、優しさで先回りをしないことです。当事者も、最初は嫌でもやってもらうと楽。そうなると今度は、家族や支援者がいないと不安になって、依存を生み出してしまう。ここを防いで、認知症の症状だけなら、工夫しながら生きていけるんです。だから、失敗する権利を取り上げないでほしい。失敗しないと工夫できないから。
――一緒に工夫するためにも父の本音を知りたい、何に困っているか聞きたいと思うのですが、なかなか話してくれないのが悩みです。
一番大切な家族だからこそ、言えないことがいっぱいあるんです。支えようとする家族に、自分の不安や困っていることは言えない。だって、心配させたくないから。特に娘には、絶対に言いたくないですよ。娘には幸せになってほしいから。だからこそ、本人の周りにたくさんの仲間が必要なんです。私も家族には言わないことも、仲間には言えます。「実は昨日こうやって失敗してさ、不安なんだよね」って。解決しなくても、言うだけでもいい。でも家族だけで支えようとすると、当事者は言える相手がいなくてどんどん負のほうにいってしまうんです。
――仲間というのは、当事者同士ということですか?
当事者同士でも、支援者でもいい。間違っているのは、支援=迷惑をかけるという考え方。支援者というのは、教科書でしか勉強したことがない、認知症について知りたい人なんです。だから当事者と活動すれば、その人はすごく育つ。だって認知症当事者というのは、経験の専門家なんだから。だから、若い支援者を育てるためにも、どんどん一緒に活動したほうがいいんです。
【後編】「夫が買う下着がダサくて…」認知症当事者のリアルな声が変える、家族の関わり方と支援の形に続きます。