近年、積極的に電気自動車(EV)のラインアップを強化している日産自動車。「リーフ」や「アリア」といったフルEVをはじめ、「ノート e-Power」などのハイブリッド車もあり、バリエーションは他メーカーと比較しても多彩です。なぜ日産は、ここまで積極的に電気のクルマに取り組んでいるのでしょうか。モータージャーナリストの内田俊一さんに聞きました。
「たま」を作った会社がEVの先駆者?
戦前、日本にはいくつかの航空機メーカーが存在していた。そのひとつである立川飛行機は終戦後に事業閉鎖となってしまったものの、その流れをくむ企業体のひとつである“東京電気自動車”は、その名の通りEVの製造に乗り出した。
当時の日本はGHQの軍需物資統制で深刻な石油不足に陥る一方、水力発電による電力には相対的に余力があったことから、東京電気自動車はEVの開発に着手し、東京都北多摩郡府中町に工場を借りてクルマを作ることにした。東京電気自動車はのちにプリンス自動車になり、日産へとつながっていく。
東京電気自動車は1946(昭和21)年、当時の小型ボンネットトラックをベースに2台の試作車を完成させるのだが、そのクルマは荷台の下にバッテリーを積み、ボンネットの下をエンジンからモーターに入れ替えだけのシンプルなものだった。モーターは日立製作所、バッテリーは湯浅蓄電池(現在のGSユアサ)と共同開発した。
翌1947(昭和22)年5月には乗用車版も完成。工場の土地の名から“たま”と名付けた。2ドアセダンで最高速度は公称35km/h、1回の充電走行距離は同65km。政府主催の第1回性能試験では、カタログ値を上回る航続距離96kmを記録した。
その優秀さをアピールしたこともあり、たま電気自動車は1951(昭和26)年ごろまで、タクシー需要を中心に多くの台数が市場に出回った。後にいくつかのバリエーションや上級車なども登場している。しかし1950(昭和25)年、朝鮮戦争の影響により、電池の原料である鉛が軍需物資として暴騰。その一方、ガソリンについては統制が解けたことから、再びガソリン車の時代が到来した。日本のEV史はここから、長い「中断期間」に入る。
その後、フルEVの市販車は「リーフ」まで待たなければいけなかったが、日産は中断期間中もEVへの意欲を捨てなかった。1970年の東京モーターショーにはEVのコンセプトカーである「315X」を出展。1980年代には「マーチ」をベースとするEVも開発した。日産は、EVの先駆者としての意気込みを絶やさなかったのである。