企業の経営層は、過去にどんな苦労を重ね、失敗を繰り返してきたのだろうか。また、過去の経験は、現在の仕事にどのように活かされているのだろう。そこで本シリーズでは、様々な企業の経営層に直接インタビューを敢行。経営の哲学や考え方についても迫っていく。 第10回は、株式会社ロジカ・エデュケーション代表取締役CEOの関愛(せき あい)氏に話を聞いた。

  • 株式会社ロジカ・エデュケーション代表取締役CEOの関愛氏

経歴、現職に至った経緯

まずは経歴について。関氏は穏やかな口調でこう話し始めた。

「大阪府箕面市で生まれ、12歳の時に家族で北海道に移住しました。十勝平野の士幌町という町で大自然に囲まれた生活でした。経済的な事情で高校には行けなかったため、肉体労働の傍ら、本を買ってきてプログラミングを独学で学びました」

元来、ずば抜けた才能があったわけでも、勉強が得意だったわけでもないという関氏だが、学歴がない分、「手に職をつけなくては」という思いがあったという。

「プログラミングを独学で学ぶのは、9割が挫折してしまうと言われるほど大変なことです。それでも私は、困難を乗り越えてなんとか学習を続けることができ、18歳でプログラマーとして起業しました。19歳のとき、IPA未踏事業からスーパークリエータに認定されました」

「IPA」とは経済産業省が管轄する情報処理推進機構のこと。IT分野で優れた能力を持つ若い逸材を発掘・育成することを目的に2000年度からスーパークリエータの認定を行っている。関氏は2004年度に認定を受けた。

「23歳から、大手有名企業の新入社員研修の講師を務めるようになりました。約15年間で1,500名以上の現役SE・プログラマーを育成し、日本の学校教育では「働き方」を教えていないという現実を痛感しました。どんなに良い大学を出た若者でも、学生と社会人の間の大きな壁を乗り越えるのにストレスを感じたり、苦労したりしていると気づきました。この問題をなんとか解決したいとずっと考えていました」

そんな関氏に転機が訪れる。

「30代を過ぎたある時、幼なじみから『自分の子にもプログラミングを教えてもらえないか』と相談を受けました。子どもたちを公民館に集めてボランティアでプログラミングを教え始めると、予想をはるかに超える吸収力と成長に驚きの連続でした。私が感じていた課題を解決するには、『子ども時代の教育が鍵』だと思い、34歳で現在の法人を設立。『ロジカ式』というプログラミング教育ブランドの全国展開を始めました」

ロジカ・エデュケーションについて

続いて、株式会社ロジカ・エデュケーションの会社概要について伺った。

ロジカ・エデュケーションでは、小学生から高校生向けのプログラミング教室「ロジカ式」をはじめ、小学校向けの「ロジカ式 for SCHOOL」、幼稚園・保育園向けの「ロジカ式 pre SCHOOL」など多角的なサービスを展開している。

「『ロジカ式』はプログラミング教育と社会人教育を融合させた教室です。現在、関西を中心に全国で約180教室を展開しています。元プロ野球選手の田中賢介氏も教室オーナーのおひとりです。15年に及ぶプログラミング教育経験と社会人教育経験を生かし、子どもたちの輝ける未来を創造する教育事業だと自負しています」と関氏。

全国的に高い評価を受けている「ロジカ式」ブランドは官民問わず活用されている。NEC・日教販と協同で提供する学校用プログラミング教育教材「ロジカ式 for SCHOOL」は、46万人以上の児童の教材として全国60を超える地域の教育委員会で採用されている。LINEと共同開発したオンライン教材や、「富士通FMVキッズ」とタイアップしたアプリの開発など幅広い展開を見せる。

「2025年から大学入試に『情報』という科目が追加され、DNCLという大学入試専用のプログラミング言語が出題されることが決まっています。塾や予備校向けに、日本初となる大学入試対策用の『情報』科目教材を開発しています」と、今後のさらなる活躍も期待できそうだ。

若いうちに起業し、苦労したエピソード

失敗談を伺うと、自然に囲まれた十勝平野での生活は、経済的な過酷さと隣合わせだったという。

「中学卒業後は家計を助けるために新聞配達や牛舎の建設といったアルバイトを始め、高校には行けませんでした。バイトの傍ら独学で勉強し、17歳の時に大学入学資格検定を取得。18歳でプログラマーとして起業しました。しかし私の住んでいた士幌町は、当時ITとは無縁。技術はあってもそれを生かせる仕事はありませんでした」

そこで、関氏は札幌や東京のIT企業にひたすらメールで営業をかけた。

「残念ながら、18歳の未経験者ではほとんど相手にされませんでした。それでもあきらめずに何百社という会社にあたるうちに、『安価であれば、試しにお願いしてみよう』という奇特な社長さんと出会い、それをきっかけに少しずつお仕事を頂けるようになりました」と振り返る。

一番つらかった時期をこのように振り返る。

「中学卒業後、仕事がある程度軌道に乗るまでの3年間、様々なことを全力でやりすぎて、肉体的にも精神的にも本当に大変でした。努力が思うような成果につながらず、焦りの気持ちばかりが募って毎日吐き気を催しているような状態でした。結果的には、諦めずにやり続けたことが実を結びました」

家計を助けながら独学で勉強する大変さは察するに余りある。さらに、社会に早く出たからこその苦労もあった。

「企業研修の講師として、23歳のとき初めて行ったのは三大メガバンクのひとつでした。受講生は東大や京大卒ばかり。実は同学年で中卒の私が、彼らに働き方を教えることになり、年齢と学歴はひた隠しにして教鞭をとっていました」と苦笑する。

「大企業ばかりのクライアントから結果が求められる中、働き方や、社会人としての基礎力といった教育を受けていない学生を約3ヵ月間で立派な社会人へ変えるのは本当に大変でした」

この時の経験が、今の社会人教育とプログラミングを組み合わせた事業につながる。しかし、若さゆえの失敗もあったという。

「特に20代前半は自己過信が過ぎて色々とやらかしました。簡単に終わると思って納期ギリギリまでほったらかしていた仕事が予想以上に難しく、納期を大幅にオーバーしてしまったことが2度ほどあり、その結果、損害賠償を請求されたり契約を打ち切られたり……。今思うと本当に恥ずかしい失敗です」と包み隠さず語ってくれた。

我慢強く続けることの大切さ

10代で苦労した経験から、「石の上にも三年」と「果報は寝て待て」の大切さを学んだという関氏。

「我慢強く3年以上続けていると、何らかの芽が出てくるものです。なかなか成果が表れないように思えることでも、できることをやった後は、焦らずに芽が出るのを辛抱強く待つことが必要です」と、自身の経験を振り返る。

「30代半ばで立ち上げた現在の会社もなかなか思ったような結果が出ず、銀行からの借入も5,000万円以上に膨れ上がってしまったのですが、必ず成果は出ると信じ、楽しむようにしてきました。結果として、4年目から様々な物事がうまくいきはじめ、お陰様で企業評価もうなぎ登りに高まっています。先日実施した株式投資型クラウドファンディングでは、約17時間で300名近い投資家から5,000万円を調達することができました」

つらい時期を忍耐し、あきらめなかったからこそ、努力が実を結んだ。

「若くして成功したからといって天狗になってはいけないということも失敗から学びました。自己過信のあまり傲慢になってしまうと、多くの失敗の原因となりますし、何よりも大切な人の和が乱れてしまいます。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』という言葉がありますが、偉くなればなるほど謙虚さを忘れないように、従業員やお客様を大切にした仕事をしていくことを日々心掛けています」と控えめだ。

就活生・若手ビジネスパーソンにメッセージを

最後に、就活生・若手ビジネスパーソンに向けたメッセージをもらった。

「すべてにおいて完璧な人間なんていません。誰もが必ず失敗したり上手くいかなかったりします。大切なのはそこであきらめてしまうのではなく、めげずに立ち上がり続けることです」

そして、中国の「塞翁が馬」という故事を引き合いに出し、こう続けた。

「成功に見えることが失敗に繋がったり、失敗だと思ったことが成功に繋がったり、本当に何が良かったか、なんてことは後になってみないとわからないものです。私自身も、人生を振り返ってみると『失敗は成功の母』だったと感じることが沢山あります。若い皆さんはいくらでもやり直しがきくので、ぜひリスクを恐れず色んな事に積極的にチャレンジしてみてください。皆さんの挑戦が素晴らしい未来を切り拓いていくことを楽しみにしています!」

18歳でプログラマーとして開業し、学歴の壁や貧しさをものともせず、挑戦し続けた関氏。前向きなエールで締めくくった。