ジェット機を就航させた日本航空は60年代、高度経済成長によって飛躍していく日本の国とともに急成長を遂げていく。1961年6月6日には北回りヨーロッパ線の自主運航を開始。機材はDC-8だった。ルートは後にヨーロッパ直行便が就航するまで続く東京→アンカレッジ→ヨーロッパ。DC-8は「空の貴婦人」と呼ばれ、「ライバルのボーイング707が少しゴツい感じがするのに比べ機体の曲線が優雅だった」(吉田仟・同社OB)。

コンベア880。巡航速度876km/h、航続距離5500km、座席77~107席(国際線)、124席(国内線)。プロペラ機はプロペラのある機体前方ほど騒音が大きかったため、ファーストクラスが座席の後部にあった。ジェット機になって後部のエンジン音が大きくなったことで、上級クラスほど機体前部に設置されるようになる

翌62年10月4日には、南回りルートを開設した。当初のルートは東京→香港→バンコク→カルカッタ(コルカタ)→カラチ→クェート→カイロ→ローマ→フランクフルト→ロンドン。所要片道31時間、飛行時間はのべ21時間だった。飛行時間だけで現在の直行便の平均所要時間である12時間の約2倍、全所要時間では約3倍かかっていたことになる。

使用された機材は、当時の世界最速を誇ったコンベアCV880。この年の7月にはジャカルタ線も開設され、同じCV880が使用された。東京オリンピックが開催された1964年には海外旅行が自由化され、翌65年にはパッケージツアーの代名詞となる「ジャルパック」が誕生。空の旅が一般的になっていった。

ビートルズ来日をサポートし、世界一周路線も実現

世界一周路線開設を機に新調された4代目の制服。鮮やかなスカイブルーが印象的。デザイナーは森英恵氏

そして、1966年6月に来日したザ・ビートルズも、日本航空のヨーロッパ北回り便を利用した。メンバーはハンブルグで公演を終えた後、アンカレッジを経由して東京に向かう予定だったが、台風の影響で10時間をアンカレッジのホテルで過ごし東京に向かい、早朝3時半に羽田空港に降り立つ。この時にメンバーがハッピを着ていたのは有名な話だが、これは日本航空・広報部のアイデアだった。

しかし、事前の交渉はなく、その“重責”を果たしたのは客室乗務員だった。東京へ向かう機内で、ジョン・レノンに「あなたたちがこのハッピを着て日本の地を踏んでくださると、どれだけファンが喜ぶでしょう」とお願いしたところ、彼は「Good idea!」と気軽に自ら袖を通し、他のメンバーにも薦めてくれたという。

北回りと南回りルートができたということは、世界一周も可能になったということ。翌67年3月6日に世界一周の西回り1番機が、翌日には東回り便が出発した。ルートは便によって多少異なるが、例えば西回りは東京→香港→バンコク→ニューデリー→テヘラン→カイロ→ローマ→フランクフルト→ロンドン→ニューヨーク→サンフランシスコ→ホノルル→東京。東回りはこれを逆に辿った。

なお、これまでローンチされた唯一の国産旅客機として知られるYS-11は、1969年の福岡~釜山線などで利用された。そして、70年代に入ると日本航空が世界最多の保有エアラインとなるジャンボ機が登場する。

NAMC YS-11。巡航速度450km/h、航続距離680km、座席60席。ジェットエンジンでプロペラを駆動するターボプロップ機。日本エアシステムの前身である日本国内航空が最初に使用するなど、主に国内ローカル線で活躍した