FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。為替相場分析の専門家がFXの歴史を分かりやすく謎解きます。今回は「ポスト・トリシェ」を解説します。
マリオ・ドラギ氏は、2011年11月1日、ジャン=クロード・トリシェ氏の後任として、第3代ECB(欧州中央銀行)総裁に就任。 当初は欧州ソブリン危機が深刻化、ユーロ崩壊すら囁かれる状況であったが、2012年7月26日、「ユーロ存続のためあらゆる措置を取る用意がある。私を信じてほしい(ビリーブ・ミー)」と発言。大規模な量的金融緩和政策を推進する中でユーロ相場は反発に転じた―――。
EU、ユーロの「難しさ」
これはまさに、ドラギ総裁の、とくにECB総裁前半期についての一般的な説明といえるでしょう。ここで少し立ち止まって考えてみましょう。最初のキーワードは、「ポスト・トリシェ」です。
上述のように、ドラギ総裁は、フランス出身のトリシェ総裁の後任として3代目のECB総裁に就任しました。ただ、ドラギ総裁が就任したECB総裁というポストは、いくつかの点でとてもとてもやりにくい、「難しいポスト」だったのです。
というのも、当時のECB(欧州中央銀行)といえば、10カ国以上の国々で金融政策の司令塔といった役割だったため政治的な駆け引きも相当に強かったのでしょう。それを象徴したのがECB初代総裁の選出方法でした。
ECB初代総裁は、EUの大国であるフランスやドイツではなく、オランダから選出されました。しかも、ECB総裁は基本的に8年任期とされたところ、「4年でフランス出身の総裁に交代する」ことが「密約」されました。密約、つまり秘密の約束なのに、それが公然の秘密のようになっていたのです。
いやー、こう書くと、EU、欧州連合とか、それを受けたECB(欧州中央銀行)といった組織の難しさは、分かる気がしますね。俗な言い方をすると、「ECBのトップって、誰が考えてもフランス人でしょ」、「いやいやドイツの人でしょ」、みたいな。そんな中で、「じゃあ、そこまで言うなら、最初は(欧州の二大国)フランスでもドイツでもないところから、短期間ECB総裁をやってもらいましょう」という感じになったようです。
そういった中で、ECB初代総裁はオランダ出身のドイセンベルク氏が就任しました。ただ、これまで見てきたことからすると、求心力を得るのはそもそも難しかったと思います。
いや、むしろ政治的な観点(欧州の大国の政治的ロジック )からすると、求心力を得られない方が良かったのかもしれません。
ほとんど「公然の秘密」のようなものだったECB総裁の任期途中の交代。それを受けて新たな欧州のトップ・セントラルバンカーとなったのは、当時においてはフランスだけではなく、欧州全体でもほとんど誰も異論を差し挟むことすら難しそうな、「エース中のエース」、ジャン=クロード・トリシェ氏だったのです。
ただ、この話は、「欧州のトップ・エリート」であるトリシェ総裁後のユーロの危機を凌いだ人のストーリーになります。結果的には、「ユーロを守った男」になるドラギ総裁は、当初は「ミスター・ユーロ」のトリシェ総裁よりは格下であり、それ以上に彼の出身母体がイタリアであるということが、「本当に大丈夫か!?」といったふうに受け止められていたのです。