連載『経済ニュースの"ここがツボ"』では、日本経済新聞記者、編集委員を経てテレビ東京経済部長、テレビ東京アメリカ社長などを歴任、「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーとして活躍、現在大阪経済大学客員教授の岡田 晃(おかだ あきら)氏が、旬の経済ニュースを解説しながら、「経済ニュースを見る視点」を皆さんとともに考えていきます。
シャープが経営危機に陥った背景とは?
シャープが再び経営危機に直面しています。このほど発表した2015年3月期決算は最終損益が2223億円の大幅赤字となり、同社は経営再建のための3カ年計画をまとめました。果たしてシャープは再建できるのでしょうか。
同社は2015年3月期決算について、昨年5月の時点では最終利益が300億円の黒字になるとの見通しを発表していました。ところが年度途中から業績が急速に悪化したため、今年2月には300億円の赤字になると、一転して赤字予想に修正しました。そして最終的な結果は2223億円と、3か月前の見通しよりさらに大幅に赤字が膨らんだことになります。
同社の経営危機は2012年頃から表面化し、2012年3月期に3760億円、2013年3月期には5453億円と、2年連続で過去最大の赤字となりました。そのため同社は経営再建に取り組み、2014年3月期はいったん黒字に回復しましたが、それが再び赤字に陥ったわけです。これで過去4年の通算で赤字が1兆円以上に達したことになります。
シャープが経営危機に陥った背景には、液晶依存経営がありました。シャープと言えば、かつては液晶テレビ「AQOUS」が一世を風靡し、「亀山ブランド」は世界に広がりました。私はちょうどそのころ、亀山工場と堺工場を取材したことがありますが、今となってみればあの時期がシャープの絶頂期でした。
間もなく、大型の液晶テレビは急速に需要が減退し、その主な用途は携帯電話向けからスマホ向けの中小型へと大きく変化していきました。スマホも続々と新機種が発売され、液晶に求められる仕様や機能なども短期間で次々と変化していきます。
もともと液晶というのは大規模な設備投資で多額の費用を要する事業です。ところが市場のニーズはあっという間に変化していくのですから、すぐに設備は陳腐化し、設備過剰の状態になってしまいがちです。しかしシャープはそんな液晶事業に集中し過ぎました。液晶という「成功体験」にこだわり、市場の変化に追いつけなかったことが経営危機を招いたと言えるでしょう。
経営危機の瀬戸際にある企業の再建策としては、いかにも中途半端
今回、シャープは決算発表と同時に、経営再建のための資本増強策と中期経営計画を発表しました。資本増強策は金融機関などから2250億円の出資を受けるとともに、資本金を現在の1218億円から5億円に減資します。これによって累積損失を解消し、財務面の不安をなくすのが狙いです。
また中期経営計画は2015年度から2017年度の3年間で経営を再建するため、社内カンパニー制の導入、生産拠点の集約、本社売却、人員削減などを実施するというのが主な内容です。これにより2018年3月期には1200億円の営業黒字をめざすとしています。
しかしこの計画は経営危機の瀬戸際にある企業の再建策としては、いかにも中途半端という印象が否めません。文書には「不採算事業からの完全撤退」「成長分野へのリソース集中」などの文言が並んでいますが、どれも具体性に欠けています。不採算事業からの撤退や切り離しなど、もっと思い切ったリストラが必要ですし、同時に液晶依存から脱却して今後の成長の柱をどのように構築するのかといった戦略が打ち出されていません。これがないと、再建への道筋が描けたとは言えません。
ちょうど経営危機が表面化した3年前、町田会長(当時)は「自社の技術に自信を持ち過ぎ、最初から最後まで全て自前でやるという"自前主義"にこだわり過ぎた」と反省の弁を漏らしていましたが、現経営陣もまた過去の成功体験から決別しきれていない印象を受けます。
創業者・早川徳次氏の"不屈の精神"
このようなシャープの姿を見ていると、現経営陣には創業者・早川徳次氏の不屈の精神を思い起こしてほしいものだと、つくづく思います。
1893年(明治26年)に東京・日本橋で生まれた早川徳治は、幼少のころに養子に出され、自分が養子であることも実の両親の顔も知らないまま、養子先の継母に虐待を受けて育つという壮絶な少年期を過ごしました。それを見かねた近所の人に助けられて東京・下町の職人の家に弟子入りし、腕とアイデアを磨き、18歳で職人として独立、しばらくしてシャープペンシルを発明したのです。1915年、早川が21歳の時でした。それが後のシャープの社名の由来となるのですが、この時は「早川式繰り出し鉛筆」という商品名で売り出し大ヒット商品となりました。東京・本所区(現在の墨田区)にあった自宅のそばに工場を増設し、従業員200人を超す企業に成長していきました。今で言えば、東京で注目の若手ベンチャー経営者です。
ところが1923年9月に関東大震災が起き、早川はすべてを失ったのです。奥さんと2人の子供が犠牲となり、早川自身も大火傷を負い煙を吸って生死の境をさまよいました。自宅も工場も焼けてしまい会社は倒産。そのうえ取引先から支払いを迫られ、進退窮まった早川はシャープペンシルの特許を無償で譲渡して支払いに替えました。
壮絶な少年時代を送った末に手に入れた成功と幸せ――これを一瞬のうちにすべてなくしてしまったのです。早川は心機一転、同年11月に大阪に移り住むことにしました。夜行列車で大阪に向かう時の様子を、早川はのちの自伝で次のように振り返っています。
『あちらこちらと焼けた建物の跡が、夜の孤灯の影に黒く横たわっているのを新橋近くの車窓から見るともなく見ていた。(中略)今の夜汽車の中の心の冷えは、ただ11月の夜気だけでないことを身に沁みて感じたのであった。』
こんなどん底に突き落とされても早川はあきらめませんでした。震災から1年後の1924年、大阪市内で金属加工の下請け事業をスタートさせます。その場所が現在のシャープの本社です。やがて日本でラジオ放送が始まるとの情報を得てラジオ受信機の製作に成功します。知り合いの時計店の主人が米国から持ち帰ったラジオ受信機をもらい受け、それを分解するところから始めました。早川の伝記によれば、当時はラジオの構造はおろか電機の原理もよく知らなかったそうですが、試行錯誤の末にやっと実用機の製作にこぎつけます。これが国産ラジオの第1号でした。ここから事業は軌道に乗り、のちのシャープとなっていったのでした。
危機に直面している時だからこそ、創業精神が必要
このような早川の、何があってもあきらめない不屈の精神、過去にこだわらずにゼロからのスタートをいとわないチャレンジ精神――これが早川の再起の原動力となったのです。それだけではありません。シャープペンシルは、当時ちょうど西洋から万年筆が輸入されるなど、筆書きからペン書きに変わっていくというニーズの変化を読んだものでしたし、ラジオ国産化はラジオ放送開始をにらんだ新規事業だったと表現することができます。まさに時代の変化を先取りして機敏に成長事業を育てていったわけで、それがシャープの技術力の基盤となったのです。
現在のシャープを見ていると、そのような創業者精神がやや忘れ去られているような気がします。「目の前の危機をどう乗り切るかが問題で、創業精神など過去は関係ない」と思う人がいるかもしれませんが、今のように危機に直面している時だからこそ、前述のような創業精神が必要なのです。シャープがそれを取り戻せるかどうかに再建がかかっていると言っても過言ではないでしょう。
執筆者プロフィール : 岡田 晃(おかだ あきら)
1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。