何の因果かクリスマスに更新日を迎えることとなったこの連載ですが、みなさんは独身女性がどのようなクリスマスを迎えているとお思いでしょうか?
道行くカップルに呪詛の念を送り、クリスマスなどという商業主義に毒されたイベントの存在を呪い、キリストの誕生までも呪いかねない勢いだった10代、20代を過ぎると、30代のクリスマスはもう穏やかなものです。
手作りリース教室に行って作った小ぶりなリースを飾ったり、羊毛フェルトのマスコットの仕上げに精を出したり……。クリスマスを憎んでも何も始まらなかったし、憎んでも何もないまま人生終わるかもしれないと悟り始める30代は、ささやかにクリスマスを楽しもうと穏やかな気持ちで聖夜を迎え、きらびやかなイルミネーションを愛でるのです。そう、ひとりで……。
今だけかもしれない"気楽さ"という財産
クリスマスといえば、思い出す光景があります。私がまだヒマでヒマでしょうがない怠惰な大学生だった頃、クリスマスシーズンの平日にディズニーランドに行きました。至るところにツリーが飾られ、クリスマスソングが流れるランドの中を歩いていると、ふとある光景を目にしました。
それは、三人乗りのベビーカーを押した一人の母親と、ベビーカーに一人、抱っこで一人赤ちゃんを連れた母親の二人連れ(子供も入れて七人連れ)でした。最初に思ったことは「大変だなぁ」でした。三人と二人の子連れで、他に家族は誰もいないとなると、移動も大変だろうし……と。
子供たちはまだ小さく、アトラクションには乗れない年齢です。母親も、まだ抱っこの赤ちゃんがいては乗れないでしょう。私は少し不思議に思ったのです。「アトラクションにも乗れないのに、混雑しているディズニーランドに来て、楽しいのかな?」と。
最近になって、ベビーカーを電車で畳むべきかどうかという議論を目にして、私はこのときの光景を思い出しました。ベビーカーを畳むべきかという議論には、最初から「年子で二人いるとか、一人は抱っこできても二人や三人は抱っこできない(=ベビーカーを畳みようがない)」という視点が完全に抜け落ちています。
自分の友達に子供が産まれてから、私は子連れで安心して食事に行ける、子連れへのサービスが行き届いた店、子供が泣いても大丈夫な店をファミレス以外で見つけるのがいかに困難なことか知りました。ただ食事をするだけでもそうなのですから、遊びに行くとなると、どれだけ大変か……。
あの母親たちにとって、たくさんの子連れで移動することよりも、子連れで安心して遊びに行ける場所を探すことのほうが、ずっと困難だったに違いないと思い至った瞬間、そのことに気がつくまでに十五年以上もかかった自分自身に対して、恥ずかしくてたまらなくなりました。
独身女でも、母親でも「自分でその道を選んだんだから、文句なんかないはずでしょ?」と決めつけられることは、同じように苦痛であるはずなのです。人生は、選択できることもあればできないこともあります。全部を自分の力で選び取れるわけではないし、選んだ道だって、実際に歩いてみなければ、どんなものかわからないのです。
そして人生は、「つらい」か「幸せ」かの二択ではありません。つらさと幸せが同居している状態だって、当たり前にあります。その複雑な人生を歩むときに生まれる、ひとことで言えない感情に対して「自分で選んだんだから、自己責任でしょ」と、口を封じられるつらさを知っているならば、他の誰かに対してもそう決めつけるのではなく、「複雑さ」を思いやる気持ちを持てるようになりたいと、私は思うのです。
<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。その「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を昨年上梓。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『POPEYE』などで連載中。
イラスト: 野出木彩