漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「リピーター」である。
リピーターとは、同じ店に通い続けたり、同じ商品を使い続けたりする人のことである。
漫画でも「何の話か全然知らねえけどこの作者だから買うか」という作家買いをするのは、その作家のリピーターと言える。
つまり、リピーターというのは基本的にありがたい存在だ。
本を出すたびに「ファンだから率直に言わせてもらいますが今回のは正直先生のカラーが出し切れていないと思います、新参(笑)の方はこういうのを喜ぶのかもしれませんが」と、お値段以上のストレスを与えてくるリピーターもいるが、それでも買ってくれているというのはありがたいことである。
よって販売側はリピーターを逃さないために「いつもありがとうございます」と声をかけたり、サービスしたりとリピーターを特別扱いすることもある。
推し活においてはこのような状態を「推しに認知された」といい、一種のステータスのように扱われるため、いつの間にか認知されることが目的になってしまったりもする。
推しを応援するという活動がいつの間にか自分の承認欲求を満たす行為になってしまっているのだが、推し活とは自分のためのものだ。迷惑にならなければそれも一つの楽しみ方だろう。
しかし認知を嫌がる者もおり、認知された瞬間リピーターをやめるというものさえいる。
それが一番よく起こっているのがコンビニではないだろうか。
コンビニと言えば、ひきこもりの唯一の外出先としても有名だが、なぜひきこもりがコンビニに行くかというと、大体の用がそこで済む、というのもあるが、人間との接触が最低限で済むというのもある。
つまりドライさを求めて通っているのに「いつもありがとうございます」などとウェットなことを言われたら、次から行く気が失せてしまう。
さらに「今日はパリチキはいいんですか?」などと、いつも買っているものまで把握されたら「ここも潮時か…」とつぶやきながら、爆発する店舗をバックに去っていくしかない。
そして、店員に認知されている上に「イカフライ(大)」など、あだ名をつけられているということをたまたま知るという最悪のパターンもある。
しかし、なぜコンビニのリピーターであることだけが、ことさら不名誉なこと扱いされてしまうのか。
シャネルのリピーターとして店員に認知され「9番様」と呼ばれているなら、それはもはやステータスだろう。
客をあだ名で呼ぶ人間はシャネルの店員に向いていないとは思うが、ブランドショップにとってリピーターというのは何よりも尊ぶべき存在である。
コンビニだって、セブソやローソソというブランドである。
利用者側も自分がブランドの常連であることをもっと誇っていいし、認知はもちろん、あだ名はコンビニユーザーが喉から手がでるほどほしい「称号」と言っても過言ではない。
実際リピーターの称号は文字通り一朝一夕で手に入るものではない。一度大きな買い物をすれば良いというわけではなく、結構な額を長期間にわたって使うことにより、はじめて「お得意様」となるのだ。
コンビニのあだ名も時間と金をかけた努力の結晶と言える。
また、通うことにより、自分がレジ前に立った瞬間店員がホットフードの蓋を開けるなど、阿吽の呼吸がうまれてくる。これはたとえ店ごと買い取る金持ちでも一見では得られないものである。
推しに認知されるのが名誉であるなら、推しコンビニに認知されるのもステータスとする文化になっても良いはずである。
しかし、それでも店側に認知されるのは苦痛という人も多い。
よって「今日も竜田2個すか?」など直接的なことを言わず、さりげなくその顧客のことを理解したムーブをするぐらいが好ましい。
そういう意味では私は、通っている美容院に認知されていると言える。
なぜなら、席に座って髪型の要望を伝える会話をした以降は、一言も話しかけられないからだ。
一度「この店舗に来たばかり」という美容師が2、3話しかけてきたが、その次からは一切話しかけてこなくなったので「この客には一言も話しかけるな」という情報が伝達されたと思われる。
今まで、話しかけられることが苦痛で何度も美容院をかえてきたが、ガン無視されるようになったことで楽になったため、以降この美容院に通っている。
存在を認知され話しかけられるようになったことを喜ぶ客もいれば、対応が良くなればなるほどテンションが下がり、塩対応に安堵する客もいる。
そこを見極めなければいけないのも接客業の大変なところである。
ただでさえやることが多すぎるコンビニの店員にそこまで求めるのは酷である。こちらもうっかり「ワイルドLチキ」と呼ばれても店舗を爆破しない寛容さを持ちたいものである。