漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「練習」である。

いつになく漠然としたテーマだが、考えてみると大人になれば「練習」という概念自体がなくなる気がする。

たまにカラオケで「これ練習ね」など、まるで武道館で本番があるかのようなエクスキューズを必ず入れてから歌う奴はいるし、完全に本番のつもりで描いた推しのイラストがイマイチだった時「○○(キャラ名)練習、うおお失敗(滝汗)」と一言添えてわざわざ練習の上に失敗作を見せてくる古代のオタクもいる。

どちらにしても「猛烈にうざい」という点は共通しているため、やはり大人になったら練習が必要な職業以外のものは「練習」などという甘えた言葉は言わない方が身のためなのかもしれない。

逆に言えば、我々は大人になると大半のことにぶっつけ本番で挑まなければいけないということである。

「出社」など、大半体育座りしているだけの運動会などよりもよほど難易度が高いはずだ。

そんな難しいことに、練習機会も与えず挑ませておいて「8時間も遅刻するとは何事か」などと叱責するのは理不尽でしかない。

そもそも人生自体が突然穴から引きずり出されて「では今から生きてください」と言われる不親切設計である。

せめてある程度ルールがわかるまでやらせて「では最初からプレイしてみましょう、頑張ってください」と、母親の股間に押し戻してくれるチュートリアル役が必要だ。

ただ、今の人生自体が「練習」の可能性がある。だとしたら練習の時点で人間の才能がないことがわかっているので本番は辞退した方が良い。

このように、そもそもそれをやる才能があるのかどうかを見極めるためにも「練習」と言うのは必要だ。

亀甲縛りで海中に沈められてから「俺には脱出マジックの才能がない」と気づくようでは困る。

ただ、厄介なことに大人になると「練習」はなくなっても「準備」と言う概念は残り続けるため、ミスをすると「準備不足」を責められる場合がある。

しかしその準備を家でしてこいと言うのなら、それは時間外勤務なので手当を出してしかるべきだろう。

では日常生活において「練習」の必要性があるかというと、昔は「花嫁修業」などと言って結婚する前に家事などを一通り習う文化があったようだ。

そう言えば私の母も私が結婚する前に「今のうちにお華を習った方がいいんじゃないか」と、もはや一刻の猶予もなくなった神田大尉みたいな顔で言っていたような気がする。

今思えば華以外に習っておくべきことは5億個くらいあったはずなのだが、母も私という男坂級の未完の大器をよそ様の家に納品しなければいけないと言う事態に相当焦っていたのだろう。

しかし、幸い今は家電が発達しているので、大体の花嫁修業は「ボタンを押す練習」で終わる。

ただ、そういった便利道具を駆使して家事を行うことに未だに否定的な人間がいる。

だが、そういう人間ほど、権威がある人間の「努力は裏切らないというが、間違った努力は裏切る」と言う言葉には、深く頷いていたりするのだ。

家事もスポーツ同様、過程ではなく結果の世界であり、むしろ毎日やることなのだから、できるだけ少ない労力で良い結果を出すことが求められる分野と言える。

全てドラム式洗濯機に任せて綺麗になった服より、何故か洗う前よりついてるウンコの量が増えたパンツの方が偉いという世界ではない。

そこで、手洗いの練習をすべきかというと、それは洗濯機に任せて自分は「もう3往復ケツを拭く」など別のことに時間を使った方が有益である。

おそらく今「料理をするためにきりもみ式で火をおこす練習をしている」と言ったら「時間の無駄」と失笑されるだろう。

何の進歩もない人間の代わりに大幅に進化してくれた文明の力がある現代において「家事の練習」とは、そういう時間の無駄になりかねないのだ。

しかし、文明の力には金がかかるので、自分でやらなければいけない部分も発生してしまう。

つまり「全て自分でできるようにして、自分でやる」ではなく、どこまで力(リキ)に任せてどこまで自分でやるか、ベストを導き出すのが現代に必要な家事能力である。

私も熟考の末、料理はホットクック、ホットクックに内蓋を取り付けるのは私、というベストを導き出した。

ちなみに内蓋を洗うのは食洗機が担当している。

全部自分でできるのは偉いが、全部自分でやろうとするのは良くない。

ちなみに放っておいたらつけっぱなしになる内蓋を外して食洗機に入れるのは夫の役目である。