漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「落ち込む時」だ。

相変わらず漠然としたテーマだが、逆に「落ち込んでない時」の方が「ない」の一言で終わってしまうので困る。

私は何を言っても暗い言葉しか返ってこないので「死ね」としか言わないオウムのようにだんだん誰も話しかけなくなってきているのだが、正直私は自分を暗い人間だと思っていないし、むしろ明るい方だと思っている。

そう言ったら今まで言ったどんなギャグよりもウケてしまったのだが、ギャグではない。

落ち込まない極意というのは「浮上しないこと」なのである。

もちろん、人生というのは底なし沼なので、落ちようと思えばどこまでも落ちることが可能であり「最底辺」というコミケの最後尾みたいな札を目にすることはない。

しかし、常に低いところにいれば落ちた時の落差が小さくなり、ただの致命傷で済むのである。

つまり私は日々を明るく過ごすために常に暗くしている、と言って良い。

幸い漫画家になったおかげで、日々を暗く過ごす材料には事欠かない。

Twitterを開けば瞬時に他人の漫画のメディア化や100万部情報が目に入ってきてすぐに落ち込むことができる。

しかし、会ったこともない赤の他人と自分を比べて落ち込むというのは、落ち込みとしては大したことがないのだ。

おそらく、石原さとみよりも隣の机の大して可愛くないはずなのにチヤホヤされている女と自分を比較している時の方が辛いのではないだろうか。

だが、そういう落ち込みも「確かに私よりチヤホヤされているけど、こいつの実家昨日燃えたしな」のような代替えで自己完結できる。

本当の落ち込みというのは、リアルに他人が関わっている場合ではないだろうか。

同じ事故でも、壁に激突するより他人に激突した方が落ち込むはずである。

そっちの方が量刑が重いから落ち込むという意味ではなく、たとえ人間より壁を壊す方が罪が重かったとしても、人並みに心というものがあれば人を轢いた方が落ち込むのではないだろうか。

それと同じように、落ち込みも自爆より、他人を巻き込んで爆発し、さらに他人のダメージの方がでかい、という時が一番落ち込むのではないだろうか。

つまり自分の過失で他人に迷惑をかけた時が最も落ち込むということだ。

他人を巻き込んだ落ち込みの厄介なところは自分では全くコントロール不可能な領域にある点だ。

自分ひとりの落ち込みであれば、無駄に何十年も自分をやっているだけあって「自分の浮上のさせ方」はある程度心得ているし、最悪違法薬物でも打ってしまえば強制的にあげることはできる。

しかし、他人の心というのはそうは行かない。

もちろん、土下座などの自分のアクションで相手の気持ちが変わることもあるが、その「自分の土下座に価値があると思い込んでいる神経」に相手が余計ムカついてしまう可能性はあるし、他人に違法薬物を打ったら罪に罪を重ねることにもなりかねない。

つまり、他人を巻き込んだ落ち込みというのは、自分でなす術がなく「相手が許してくれるのを待つしかない」という、運を天に任せた状態になりがちなのである。

落ち込んだ上に、その落ち込みを自分ではどうにもできない、というのはかなり辛い状態である。

さらにどれだけ辛かろうが「相手の方がもっと辛い」ため、同情されるどころか、辛がれば辛がるほど「なぜ離婚調停で不倫したお前の方が泣いてるの?」みたいな空気になり、余計周囲からの不興を買ってしまう。

つまり落ち込む権利すら与えられないのが他人を巻き込んだ落ち込みであり、これには「最初から巻き込まない」以外の対処法はない。

日本が「他人に迷惑をかけるな」と子供に教育しがちなのは、相手を慮る気持ちが強いからではなく、他人に迷惑をかけるとその後の展開が地獄だしなぜか保護責任者である俺も同罪にされるから、という5億%保身から来ているのではないかと思う。

現在私は無職の引きこもりなので、少なくとも物理的に他人に迷惑をかけることがないので非常に快適であり、思う存分会ったこともない100万部作家と自分を比較して落ち込めるという状態だ。

もし、自分と遠くのものを比較して落ち込んでいる場合は、その状態がまず幸せだと思ってほしい。